まりの部分の抜粋だぁ。読んでくれるととても嬉しい。買ってくれたらもっと嬉しいよん。
 うっくくく、嬉し涙が……。(買ってくれた場合)

少し長い「はじめに」

 都心で自転車に乗る人の姿を見ることが多くなった。
 理由の一つは、いわゆる「自転車便」だろう。赤坂や銀座など、都心でビジネス文書などを運ぶ「バイク(オートバイ)便」が、このところ次第に「自転車便」に取って代わられつつある。
 特に都心において、自転車便がバイク便よりも有利な点は多い。
 ランニングコスト、維持費が格段に安いこと、深刻な事故がバイクに較べて圧倒的に少ないこと、都心地域に限るとバイクよりも自転車の方が速い場合が多いことなどだ。
 洒落たマウンテンバイクに跨り、肩から大振りの帆布製書類鞄(メッセンジャーバッグと言うらしい)を提げ、サングラス、流線型ヘルメット、ピッチリウェアに身を包んだ彼らは、ちょっと新鮮に見える。格好いい。晴れた日にそれらの自転車小僧たちが都心を縦横無尽に走る風景は爽やかですらある。
 同じようにメッセンジャーボーイたちが自転車に乗って走り回るのは、ニューヨークではとっくに当たり前の光景だ。
 映画によく出る風景。小粋だし、私はそこには小さな、しかし確実な正義があると思う。
 霞ヶ関では、これまで少しの距離にも黒塗りのハイヤーに乗っていた官僚たちが、(電動サポート付きながら)自転車に乗ることになったという。これも間違いなく良いことだろう。
 東京、ニューヨークに限らず、都市を四輪車で移動することに、いつしか疑問を持つようになった。
 夥しい排気ガスを吐き出し、ガソリンをがぶ飲みし、自らの足で歩くのを忌避しながら、一方でテレビCMには相変わらずダイエットの、エステの広告が溢れている。おかしなことだなと思う。
 不景気、不景気といいながら、後席のがらんと空いた大型車が相変わらず渋滞を作っている。変だなと思う。

 毎日の通勤に自転車を使い始めて、一年以上が過ぎた。
 スピードメーターの累積距離が三〇〇〇キロを越え、体重は一〇キロ近く減った。日暮里から赤坂までだから、片道だいたい一〇キロ強。それを一時間半くらいかけて往復する。
 一日わずか二〇キロちょっと。そう、いったん自転車に乗り出すと二〇キロなど「わずか」なのだ。
 私は都内のテレビ局に勤めている。多少は特殊な業種といえるかもしれないが、基本的には三二歳の通常のサラリーマンだ。決まった時間に通勤電車に乗って出勤し、同じオフィスで働き、夜遅くに帰る。それが日課だった。
 だが、今は少しだけ違う。些細なことながら、当たり前の日課に何か大切なものが加わったような気がしている。
 別段、何のポリシーがあったわけでなく、偶然のように始めた自転車通勤だったが、それは私にとって大正解だった。大袈裟に言えば、自転車は私の人生をちょっぴり楽しくしてくれた。
 少年時代には誰もが乗った筈の自転車なのに、ふと気づくと久しくサドルに跨らなくなる。誰でもそうで、無論、私もそうだったのだけれど、考えてみれば勿体ない話だ。
 自分にとっての初めての自転車を思い出してみると良い。
 私のは一七インチの子供用の青い自転車だった。
 休日に親父が荷台を支え、転びながら自転車の乗り方を覚えた。幼稚園の年長組の頃だったと思う。「手を離さないでよ」と言いながら、初めてチョロチョロと走り出した時は嬉しかった。気づくと支えて走ってくれている筈の親父は、遠く後方で笑っていた。
 子供の頃っていうのは誰でも凄いもので、自転車などすぐに乗れるようになってしまう。運動神経のあまり発達していない私など、大人になって覚えたら、きっと膨大な努力を要求されるに違いない。自転車に乗るというのは誰でも出来ることだが、凄い技術でもあるのだ。一輪車のことを考えてみれば分かる。大人になって覚えようとするなど、ほぼサーカスの芸に等しいが、最近の小学生は奇跡のようにホイホイ乗るもの。
 いったん慣れると、どんな子でもそうするように、あちこちに自転車で行くようになった。少し遠出をするごとに自分の領土が増えていくような気がしたものだ。
 小学校、中学校、高校と田舎で育った私は、どこに行くにも自転車だった。田舎の子供たちは大抵そんなものだ。電車なんて無いもの。
 高校時代を過ごした宮崎市では、一五キロの距離を自転車で通学する生徒がザラにいた。そもそも学区がそれくらいの範囲に設定されていた。
 宮崎市の中心部を流れる大淀川の河川敷には夕刻になると、学校帰りの中高生でいっぱいになった。ちょっと洒落た不良たちは女の子を後ろに乗せていたりした。少し羨ましかった。そういうカップルたちも今から思うと、爽やかで微笑ましい。
 だが、いつしかそれらをあっさり捨ててしまう。大人は自転車に乗らないものだからだ。クルマと電車。それが所謂大人の乗り物なのだ。
 実際にお隣の韓国では、いい年の大人が自転車に乗っているのは恥ずかしいこととされるらしい。だけど、本当は自転車は決して子供の玩具などではないし、恥ずかしいものであろう筈など微塵もない。それどころか、この現在、自転車に乗ることは圧倒的な正義である。
 人生のスタイルを変え得る可能性すら持っている。少なくとも今の私はそう確信している。

 自転車通勤を始めて三ヶ月も経つと、通勤だけでなく、どこに行くにも自転車になっていた。取材に行くのだって、雨の日には地下鉄も悪くはないが、晴れた日は断然、自転車だ。この東京にいても、季節が変わるとその季節の風が吹く。その季節の植物が香り、鳥も虫もどこかで鳴いている。増えた街路樹、整備されてきた公園。東京も決して捨てたものじゃない。
 東京には空がないと智恵子さんは言ったかも知れないが、その無い筈の空から日差しが燦々と降ってくる。私は随分と日焼けした。
 久しぶりに会った人からは「どこの(外国の)帰り?」と必ず聞かれる。答えは「東京」だ。東京から自転車で帰ってきたのだ。

 都心に自転車が増えた理由はもう一つある。
 この不況の中、特に銀行などのホワイトカラー、サラリーマン諸氏の得意先回りで、自転車に乗る人が増え始めたことだ。
 黒っぽい軽快車(ママチャリのこと)に乗って、ハンドルの前の篭に大きなアタッシェケースを斜めに入れ、少し不機嫌そうな顔つきでペダルを踏んでいる。以前よりも年輩の方が多い。某銀行員の話によると、これまで「課長以上はクルマ」との内規があったのが、撤廃されたのだそうだ。
 向こうのおじさんも、ひょっとしたら、いつもの黒いクラウンを会社に取り上げられてしまったのかもしれない。景気が悪いっていうのは、本当に困ったものだ。
 でも、そうは言いながら、私はその姿は決して悪くないと思うのだ。
 大した荷物もないのに今まで乗っていたヴァンやタクシーから、おじさんたちは降りてきた。きっと健康にもいいですよ、と私は思う。
 会社も、その自転車をもっと洒落たものにすればいい。高性能のディレイラー(変速機)を付けて、ピカピカに磨き上げるといい。
 マウンテンバイクなどの派手派手自転車が多少、気恥ずかしければ、英国風の渋い高級な自転車にお乗りになると良いと思う。高級な自転車というものは、必ず素人にも「お、ちょっと違うな」と思わせる美しさを備えているものだ。
 その自転車を得意先の軒先にピタッと止めて、いやあ、暑いですね、などと汗を拭きながら人に会うのは悪くない。
 冬になったら冬になったで、大昔に流行ったハンドルカバーを付ける。冬の昼間、息を白くしながら、さあ、一踏ん張り、というのも悪くない。
 ここ一年、私はそうした。
 暑くて寒くて辛いことなど一回とてなかった。少しヤだなと思うのは雨だけだ。その雨の中だって、むしろペダルの一踏み一踏みで、身体の細胞が覚醒していくのが分かった。
 冬の日に着る服が確実に一枚減る。季節通りに暑いのと寒いのに慣れてくる。それが気持ちがよくなってくる。
 以前、皇居二重橋の前あたりで、洒落たクロスバイク(街乗り用の自転車のこと)に乗る初老の紳士を見かけたことがある。白いひげを生やし、半ズボンをサスペンダーで吊って、その下からは筋肉質の太股が見えていた。我が道を行く、という風格がある。夏の頃でカンカン帽を被っていた。実に格好良かった。
 自転車に乗る私を見てにやりと笑った。あんたもこちら側に来たか、と言っているようだった。

 週に一度でも二度でもいいと思う。会社に自転車で行ってみる。会社と自宅が地続きだと分かるだけでも大きな収穫だ。
 別段、どんな自転車でもいいのだ。今の日本で自転車がない家庭はあまりないだろう。買ったって大したことはない。
 騙すつもりはないが、騙されたと思って、試してみることをお勧めする。会社と自宅の距離が一五キロ以内なら簡単だ。二〇キロだって出来ないとは言わない。
 毎朝、馬鹿馬鹿しいほど混んでいる通勤電車を尻目に、さあ、今日からでも自転車で行こう!

第一章 私が自転車通勤をはじめた理由

 バブル経済の崩壊直後に不動産屋に乗せられて買ったマンションだった。その価格がおよそ半値になった頃、私はそこの自治会の副理事長になった。
 理事長、副理事長は一年毎の順送りで、とうとう私の順番になってしまったというわけだ。三〇世帯ほどの小さなマンションで、住んでいる人たちは皆、私よりも歳が上だった。
 それまで殆ど近所づきあいがなかった。
 住民総会にも初めて参加した。集まったおばさんたちは下落する資産価値と、繰り上げ返済について熱っぽく語った。そのパワーに多少辟易しつつ、明け透けのリアリティと生活感に少し感動した。
 一緒に出席した妻は「そういうものなのよ」と言った。
 独身の頃に買ったマンションだった。その後、結婚した。後悔した。
 結婚したことでなく、マンションを買ったことをだ。
 妻がここに移り住んできてようやく一年が経ったばかりだ。私は時間の不規則な生活をしているから、きっと独身の時代から、四〇五号室の男(つまり私のことだ)は何をやってるのか、変な人なのではないかと思われていたことだろう。だから、そこに新たに引っ越してきた妻は大変だった。奥さんがたを見ていると、既にある種のコミュニティが出来ているようで、皆、小中学生の子供がいる。そこに妻は入ることが出来ない。

 住民総会での、私にとっての初めての議題は「自転車置き場の整理をどうするか」だった。
 ある奥さんは「見るからに全然使ってない汚い自転車があるでしょ、ああいうのは捨ててしまえばいいのよ」と言った。別の旦那さんが「名札もないし、誰のものか分からないのはしようがないね」と言った。
 私は内心、少々慌てた。その誰のものとも分からない汚い自転車のうちの一台は間違いなく私の自転車だったからだ。このマンションを買って五年間、一度も乗ったことがないドロップハンドルの自転車だった。
 妻は周りに気づかれないように私の脇腹を突ついた。
 その自転車を買ってから一〇年以上が経つ。大学を卒業する直前に町田の専門店に行って買ってきた。値段的に多少無理があった。
「ランドナー」と呼ばれるタイプ。その車輪の周りには金具がガチャガチャと付いている。前後に四つ、鞄を付けることが出来るようにだ。テントなどのキャンプ用具も積める。
 大学を卒業する際に卒業旅行と称し、それに乗って東京から宮崎まで行ったことがある。車体にテントをくくりつけ、一人で公園や学校や道端に泊まった。合計二五日かかった。
 その取り付け金具は錆だらけになっていた筈だ。かなり埃も被っていた。
 マンションの裏口から入ると、自転車置き場を通る。私の自転車は、その一番隅にひっそり立てかけてあった。
 それをなるだけ見ないようにしていた。見るのが少し苦痛だった。
「捨てるしかないかな」と私は妻に囁いた。そうね、と妻は言った。「あまり目立たないようにしてね」と付け加えた。

 その夜の午前一時頃にマンションの階下の自転車を見に行った。
 私の自転車は確かに粗大ゴミだった。錆と埃にまみれ、タイヤからは空気がすっかり抜けていた。ドロップハンドルに巻かれたテープは剥がれ、ブレーキのゴムは腐っていた。
 もはや何も期待しない者が静かに死だけを待っている。降り積もる埃と錆だけを纏い、鏡を見ることをいつしか嫌うようになっていった老人。それがその自転車の姿だった。
 自転車置き場の水銀灯の下で、私はフレームを指で撫でた。埃が黒く指につき、その代わりフレームに光る筋が出来た。メタリックな山吹色のフレームだった。
 この色が好きだった。海辺に停めて、フレームが太陽に光るのを美しいと見とれていた自分を思いだした。宮崎から帰ってきた後も、北関東や伊豆などを三泊くらいで廻った。仕事が次第に忙しくなり、いつの間にか乗らなくなっていただけだった。
 いつかは磨いて乗ろう乗ろうと思っているうちに、今になった。
 私はマンションの地下にある車庫に行った。
 クルマの中に雑巾が入っていたのを思い出したからだ。
 エレベータに乗っている間、ずっと昔、自転車に乗って見た広島の海を思い出していた。瀬戸内海を左手に見ながら、大学時代最後の私は国道二号線をひたすら西に向かっていた。
 雑巾を手にして、駐車場から戻ってくると、三角形のフレームのうちの一本を磨いた。塗装面から埃を吸った油が落ち、水銀灯の光がぴかぴかと反射した。メーカーの名前が一瞬、誇らしそうにきらめいた。その光が、それでもまだ生きていると主張した。

 幼い頃、自転車が好きだった。小中学時代を宮崎県で過ごし、休みになると日南海岸を走った。
 東京からの転校生だった私は地元の子供たちに馴染めなかった。多くの時間を当時の自転車とともに過ごした。海からやってくる風が、そそり立つ山の杉の香りを吹くんだ風が、砂利道を通るときに跳ね上げる石が、私の友達だった。
 ポケットの中には小型ラジオが入っていた。その頃のラジオは歌謡曲のヒットチャートばかりやっていた。アリスの「チャンピオン」や長渕剛の「順子」などが流行っていた頃だったから、今でもカラオケ屋で他人がそれらの歌を歌っているのを聞くと、日南の風景を思い出す。
 まだICが普及していなかった頃だった。ラジオの性能も今に較べると格段に悪かったから、峠を越えようとすると、覿面に電波が届かなくなった。宮崎県の県南地区は当時、電波が非常に弱い地域だったというのも影響したのだろう。
 ラジオの電波が届かなくなると「ちぇっ」と思いながらも、同時に遠くまで来たことに満足していたのも覚えている。
 宮崎の県南地区はすべて自転車で走った。父親とともに四泊して霧島山に自転車で登ったこともある。
 毎月、小遣いで「サイクルスポーツ」という自転車雑誌を買った。雑誌の中では大学生のお兄さんたちが北海道一周をしてみたり、時速七〇キロに挑戦したりしていた。憧れだった。テントを積んで一人で放浪する、いつかは自分もそうしようと固く誓った。私の中学の教科書には自転車の部品が克明に落書きされていた。ある時はそれはディレイラー(変速機)で、ある時はタイヤのバルブだった。
 だが高校を経て大学に入ると、その当時の大学生の例に漏れず、私は堕落しきった生活を送った。自転車の代わりにクルマに乗った。助手席に女の子を乗せるためだった。脚力などもはやあろう筈もなかった。自転車のことなど忘れていた。
 しかし、いざ卒業間際になって、ある日、ふと悲しくなったのだ。かつての一番の夢だった筈の自転車での放浪を、何の意味もなく私は放棄しようとしていた。卒業論文をようやく書き終えたとき、私の頭の中に酒も飲まず煙草も吸わず、ひたすらペダルを踏んでいた中学時代の自分が生き返った。彼は私を軽蔑していた。
 最後の長い休みに幼い頃の夢を、急に実現したくなった。
 私はこれまた当時の例に漏れず、ふやけた「卒業旅行」をしようとしていた。ヨーロッパのパックは少々高価いから、ロスアンジェルスにでも行こうかと思っていた。当時のガールフレンドと一緒に。知り合って三ヶ月くらいの同い年の娘だった。
 それをやめた。ガールフレンドは怒ったが、すぐに別の相手を見つけたらしかった。
 私は旅行の費用をほぼすべて自転車の購入に充てた。中学時代の私が見たら驚くような立派な自転車が買えた。そして都内で一週間くらい練習した後、私はかつての私が走った宮崎に向かったのだ。
 途中、豊橋でガードレールにぶつかってガードレールとハンドルとの間に挟まれ、中指の爪がはがれた。尾道を過ぎたあたりで右足の膝が猛烈に痛み、病院に行ったら関節の軟骨が擦れ切っていると言われた。何かの報いだった。
 それでも何とか宮崎に辿り着いた。四週間近くが過ぎていた。入社式が迫っていた。私は脱力しながら呆然と自転車を分解し、宅急便で東京に送った。
 飛行機で自宅に帰ってくると、再び自転車を組み立てた。二〇〇〇キロの汚れを落としながら丁寧に組み立てた。ネジのまわりを歯ブラシで磨き、一つ一つをドライバーで増し締めしていった。
 思った以上の満足感が私を満たしていた。油を注して、ディレイラーの調整を終えた自転車を立てかけて、私はそれを座って眺めた。眺めながら煙草を五本吸った。夕日を反射した自転車は例えようもなく美しかった。

 水銀灯の下でいつの間にかフレームの三角形の部分とフロントフォークを磨いていた。
 ディレイラーとブレーキののワイヤーは、油の混じった埃に守られていたのか、思ったよりも錆びていなかった。
 少年時代の私が突然に頭の中に蘇った。今度の彼は私を軽蔑してはいなかった。その代わりに泣いていた。
 私は息を吹きかけてフレームの同じところをごしごしと磨いた。何をすればよいかはもう分かっていた。

 翌々日が運の良いことに祝日だったために、私は朝から自転車の再生に取り組むことになった。
 最初にバケツで水をかけ、たわしで磨いた。それだけで随分と彼は輝きを取り戻した。バルブの近くにあいたチューブの穴をパッチで塞ぐと、タイヤチューブは空気を受け入れるようになった。ブレーキシューを四つとも交換した。カンティレバーブレーキというブレーキの種別の名前を不意に思い出した。一五年ぶりに思い出す言葉だなと、おかしくなった。錆とりクリームでこすっても金具の錆はなかなか落ちなかったので、サンドペーパーで磨いた。目の粗いものから細かいものへ三回に分けてこすると、金具はやがて銀色になった。かなり時間はかかったけれど。
 マンションの目の前で作業をやっていたために、奥さんたちが何人も目の前を通り過ぎた。きっと、あなただったのね、と思われているに違いない。だが、私は後ろめたいと言うよりも照れくさかった。自転車の光沢が、薄いバリアになって、私を守ってくれたのだろう。
 後輪のフリーギア(歯車が沢山並んでいる部分)の汚れを真鍮ブラシで掻き出し、チェーンをサンドペーパーでしごき、油をいっぱいに注した。後輪を持ち上げて手でペダルを回した。チェーンは次第にギアに馴染み、ディレイラーも快活に動くようになり、飛び散ったオイルでTシャツに黒い水玉模様が出来た。
 錆び付いたクイックハブに潤滑スプレーを吹きかけると前輪も後輪もきちんと着脱できるようになった。車輪を抱きかかえてリムとスポークを磨いた。
 私は愉快だった。
 すべてを磨き、すべてを組み上げると、陽が沈みかけていた。
 私はペダルに足を載せ、右足を蹴った。ジャリジャリとしたハンドルテープの手触りが気持ちよかった。イタリア製の堅いサドルに、尻が痛かった。懐かしい痛みだった。
 乗り慣れるうちに尻にタコが出来て、馴染んでくる。私の尻は、現在、その名誉のタコを無くしてしまっているけれど。
 今や身体すべてが思い出していた。私はそのまま最寄りの駅まで走った。走り足りなかったからそのまた先の駅まで走った。ひっきりなしに変速した。油を注して三本のねじを調整したディレイラーはきちんと決まった。
 自転車は、ものも言わずに走った。すべてのねじを締め上げたから、少々の路上の突起を越えてもカタリとすら言わなかった。自らの足の力で、スピードが上がったり下がったりする感触が新鮮だった。
 家に帰ると「完全に復活したぜ」と妻に言った。妻は「そう」と答え、エプロンで手を拭きながら、じゃあ一日の成果を見に行くかなと言った。
 私は妻と一緒にエレベータを降り、ぴかぴかに光る自転車を得意げに見せた。
 へぇ、かっこいい自転車だったのね、と妻は言った。そうさ、と答え、乗ってみろよと勧めると、今はスカートだからと言うので、代わりに私が乗った。妻の前でぐるぐると回り、変速機をローに入れて、どんな坂でも楽々だと言った。
 妻は私を少し感心したように見ていたが、やがて私も自転車欲しいなと呟いた。

 翌日、会社から帰ると、ダイニングテーブルの上に本が置いてあった。「自転車で走る東京」というタイトルの、地図帳のようなものだ。妻が買ってきたものだろう。
 表参道や日比谷の地図が載っている。坂の表示が目立つのが通常のガイドブックと違うところだ。めくっていると、いつの間にか妻が後ろに立っていて、土曜日に私の自転車、買いに行くわよと言った。どんなのと聞くと、スーパーで売ってるようなので良いのよ、安いヤツ。でもママチャリじゃないのね。ママチャリじゃ長い距離走れないでしょ、と言った。
 それで、私と妻は土曜日に、近くのスーパーマーケットに自転車を買いに行くことになった。
 土曜の午後、我々は地元の大規模スーパーに行った。軒先には同じようなシンプルな自転車がたくさん置いてあった。いわゆるママチャリもお洒落になったものだと思う。余計な装飾が殆ど消え、そのシルエットはシンプルで美しい。しかも感心するのはその安さだ。二万円を超えるものが全くない。一万九八〇〇円のものは変速機まで付いている。
 一番安い九八〇〇円のものだって、まずまず立派なものだ。元々、自転車なんて金属パイプとタイヤと歯車とチェーンだけのシンプルな道具なのだから、ぎりぎりまで削るとこのくらいになるのだろうなと感心していると、それじゃないの、こっちよ、と妻は私を二階に連れていった。
 スーパーの二階にはちょっとした自転車コーナーがあった。小さな自転車屋と同じくらいのスペースだ。色んな形の自転車が壁に掲げられ、床に所狭しと並べてある。
 ドロップハンドルの自転車が激減し、棒のようなハンドルを持ったものや、何だかパイプが先端の方に出っ張った変な形のハンドル(DHバーと言うのだそうだ)を持つ自転車もあった。驚くことにサスペンションが付いた種類まで普通の顔をして陳列されている。
 昔の少年用だった種類が全く無くなり、代わってマウンテンバイクが売り場面積のかなりの割合を占めていた。流行っているんだなと思った。そういえば町で見かける最近の子供たちは大抵このタイプの自転車に乗っている。
「これがいいと思ってたの」
 妻は私を緑色の自転車の前に連れていった。見ると女性用のスポーツ車というような形のもので、前に三段、後ろに八段の二四段変速だ。
 ハンドルの握りの部分をバイクのように回してディレイラーを操作する。触ってみるとカチリカチリと精密に動く。上等だと思う。その握りの部分に「SHIMANO」とある。シマノは今では釣り具のメーカーとして有名だが、昔から自転車の変速機のトップメーカーとして自転車マニア界に君臨していた。「チネリ(伊)」や「ルック(仏)」などのヨーロッパのプレミアムメーカーも、ディレイラーは必ずカンパニョーロ(イタリアのプレミアム部品メーカー)かシマノを採用していたものだ。
 塗装されていない金属部分は殆どアルミの合金だった。軽くて錆びないこの手の合金は以前は高級車にしか採用されていなかった筈だ。
 メーカー名はK2とある。確かスキーの板を作っている会社ではなかったか、少しレトロな味わいを残していて、いかにもその齢の女性好みの自転車だった。
「いいでしょ」と妻は言った。「うん、かっこいいね」と答え、値段の札を見た。
 二万四八〇〇円とある。
 私はかなり驚いた。
「こんなに安いのか?」と聞いた。「え、こんなものじゃないの?」と妻は答えた。
 あらためて周りの自転車の値段を見ると、確かに皆安い。五万円を超えるものは壁に掛かっているツール・ド・フランスに出てきそうなヤツだけだった。自転車は安くなったのだ。
「ね、いいでしょ?」と妻は繰り返した。

 昭和五〇年代、小学館の学年誌のアンケートによると、小学校四年生男子の「今、一番欲しいもの」の一位は必ず自転車だった。テレビコマーシャルにも自転車は頻繁に現れた。当時、四〇パーセントもの視聴率を誇ったドリフターズが「シンクロメモリー」とか言いながら、ブリヂストンの自転車の前でボケた。六段変速の鉄で出来たその自転車は小学生たちの憧れだった。あれが当時の価格で六万五〇〇〇円しなかったか。
 その頃の少年用の自転車が、リトラクタブルライト(針金で跳ね上げるものだ)やらフラッシャー(自転車用のウインカーのことをそう言った)やらで満艦飾になっていたことは確かにある(その頃の小学生用の学習机を思い出す)。だが、当時は、いわゆるママチャリでも四万円近くはした筈だ。「ユーラシア」とか「ダイヤモンド」などといったちょっと高級なものはすぐに一〇万円に届いていたという記憶がある。
 あくまで当時の価格だ。物価の上昇を考え、現在の値段に換算してみると、ドリフターズが宣伝していた憧れの「シンクロメモリー」六万五〇〇〇円は一五万円程度と言えないか。
 恐らくは海外への生産委託などもあるのだと思う。合金の技術だって、安くなったのだろう。
 が、自転車というものに社会があまり価値を認めなくなったという時代の流れもあると思う。「良い自転車を」というより、「たかが自転車、走ればよい」という風に意識の流れは変わっていったのだ。青少年の興味もいつしか自転車から離れ、バイクになり、自動車になっていったのだろう。そして自転車会社は安売り合戦に突入していく。その結果がこの値段だ。耐えられなくなったメーカーは恐らく消えていったのだろう。
 ブリヂストン、宮田、日米富士、ツノダ、ツバメ、ゼブラ、ナショナル、丸石、カワムラ、関根、片倉。あの頃、国内のメーカーは、今ふと思い出すだけでこんなにあった。スーパーの店頭で見かけたのはこの中のわずかに三社だ。
 考えてみれば自転車工業という業種自体、手軽だった。
 一口に自転車工業と言っても、それは大まかに分けて二つある。金型から起こしてオリジナルで部品を作るメーカーと、それを組み上げて完成車を作るメーカーだ。現在のパソコン業界によく似ていると言えるかも知れない。CPUやメモリを作るのは技術を持つ大企業にしかできないが、部品を組み上げて完成品を作るのは割合簡単なのだ。オウム真理教にだって出来るもの。
 自転車の場合も一般の人の目に触れるのは後者となる。そして、それは中小の鉄工所が、部品の供給さえ受けられれば、溶接と塗装だけで始めることの出来る、そういう業種だったのだろう。恐らくのんびりした良い時代だったのだ。それが安売り合戦の中で淘汰される。よくあることだ。
 私は妻が示す自転車のディレイラーを確かめ、ブレーキを確かめ、ギアを確かめた。いずれも良く出来ている。あの時代にこれを売ったら、一〇万円の価格がついたことと思う。
 同時に部品のメーカー名を見て、その健在ぶりにも感心した。前述したように、ディレイラーはシマノだ。それ以外にもブレーキはダイヤコンペ、ペダルのカムはスギノ、リムはアラヤ、ハブはサンツアーと皆、以前も知っていた専業部品メーカーだ。自転車の低価格化に負けない経営努力があったのだろう。
「どう? これ買ってもいいかな」
「いいんじゃない? おれが欲しいくらいだ」
 実際にそう思った。私の自転車はいくら磨いてピカピカになったとはいえ、作り自体が古い。色々な部品がこんなに洗練されていない。おまけに重い。
 我々はその緑色に光る自転車を引っ張ってレジに連れて行き、消費税と合わせて二万五千円と少しを支払って表に出た。買うのも手軽だ。インスタントラーメンを買うのと何ら変わらない。
 妻は自転車を引っ張りながら、いつ買ったのか、スヌーピーのイラストがついた名札を見せた。「二枚あるからあなたのにも貼るのよ」と言った。
 家に帰ると私は素直にその名札に名前を書き、自転車に貼った。

 一日中雨降りで、せっかくの日曜日を終日自転車を撫でて過ごしていた。翌日の月曜日に、自転車で出勤することを考えたのは必然だった。
 私の勤めるテレビ局は赤坂にある。日暮里から赤坂まで地図上でおよそ一〇キロ。自転車のスピードは二〇キロ前後というところだったから単純計算では三〇分だ。だが、無論のこと信号、渋滞、坂、その他の存在を考えて、倍の一時間は考えなくてはならないと思う。
 それでも一時間だ。そんな馬鹿なとも思う。クルマで会社まで行っても一時間はゆうにかかる。地下鉄でもドアトゥードアで考えると四五分程度だ。自転車でそれらと同等の時間で走れるとは、もとより思わなかった。
 だから、月曜日に私は通常の出勤時間よりも、さらに一時間早く家を出ることにした。二時間の保険を考えたわけだ。
 朝の一一時に家を出た。銀行に勤める妻はとっくに出勤している。テーブルに残されていた朝食を多めに食べた。私の出勤時間が遅いのは夜一一時からのニュース番組を担当しているからだ。
 自転車に跨ってすぐに気づいた。ズボンの裾がギアの油で黒くなる。仕方がないので、ズボンの裾を靴下の中に入れた。格好が悪い。そう言えば、以前はそれ用のマジックテープを持っていた筈だった。押入のどこかに確かあった。帰ったら探そうと思う。やはり基本的なことを忘れていると思った。
 テレビ局に勤めていると、スーツを全くと言っていいほど着なくなる。これは私にとって好都合だった。ポロシャツとチノパンにデイパックを背負って自転車にまたがれば良い。普段の出勤の服装と何ら変わらない。スーツ姿で自転車というのもぞっとしない姿だから、この時ばかりはテレビ局に勤めていることに感謝した。
 雨上がりで快晴だった。初夏の太陽が腕に首筋に熱い。下町のごちゃごちゃした路地を暫く走ると鶯谷に出る。駅一つ分をもう走ってしまった。時計を見るとまだ五分。
 だが、鶯谷から谷中の丘を上がり、さらに東大弥生校舎の横も上り坂になっていて、なるほど坂を上ると覿面に汗を掻く。これまた基本的なことを忘れていたと気がついた。今、私が走っているのはクルマで行ったときの自宅と会社との間の最短距離だ。自転車の場合、速く行こうと思えばなるだけ坂を回避することが肝要だった。クルマだと気づかないことが多いが、東京という町は細かい坂が結構ある。地名に坂や谷がついているところは大抵がそうだ。
 あとで地図を検討しようと思いつつ、本郷通りを左に折れると東大前の銀杏並木だ。
 学生時代にここを歩いて長いなあと思った。でかい大学だなあと思っていたのに、自転車で通り過ぎると、ほんの少しの間だ。左手がすべて大学だから、必然的に信号で立ち止まることがない。それも速く感じる原因だ。並木が木陰になって気持ちよいこともあるだろう。快適な時間は早く過ぎてしまうから。
 本郷を越えるとすぐにお茶の水になる。今度は湯島聖堂を横に見ながら走っていく。東京文京区界隈は名前通りに文教施設が多い。少し走ると明治大学だ。こういった学問の香りがするところは落ち着いていて実に気分がよい。出てきたばかりの蝉の声がうるさいほどだ。今年は東京に蝉が大発生しているのだという。沢山の蝉が湯島に、本郷にまた卵を産んで、七年後に再び大発生してくれるといい。
 お茶の水を越えるとまもなく皇居で、大手町のビルを左手、お堀を右手に見る格好になる。皇居周りは走っている人たちが多い。もう随分前からジョギングのメッカだ。白人系の外国人とお年寄りの比率が高い。彼らのランニングシャツは汗で胸に張り付いているが、この辺りまで来ると私のTシャツも似たようなものになっている。
 皇居のぐるりをまわって、霞ヶ関。ここにまた坂がある。官庁街は丘の上に位置するのだ。車で走っているときは気がつかなかった。やはりと言うべきか、大蔵省が山頂にある。
 そこから赤坂まではすぐだ。下り坂を滑り降り、「サッポロ一番」の大看板の角を曲がると、局ビルの姿が見える。時計を見た。四五分。
 単純計算は正しかった。予想に反して、自転車での都内移動は相当に速いのだ。
 私は街路樹の下に自転車を立てかけ、チェーンをかけながら満足だった。おまけに運動不足の身体に流れ出る汗が心地よい。これから真夏になり、恐らく自転車で走るには最も苦しい時期を迎えるだろうが、四五分程度だったら何ともない。
 私はあらかじめ用意してきたタオルで汗を拭った。身体には大した負担を感じない割に、汗が大量に流れる。自転車はありだ。使える。私は確信した。

 私の退社時刻は大抵、午前一時過ぎになる。普段ならタクシー待ちの北玄関ロビーに並ぶところだが、この日はそれを後目に少し浮き浮きと赤坂通りの街路樹そばに向かった。バイクが沢山並べてあるところに、華奢な自転車が鈍く光っている。仕事も終わったし、ペダルが軽い。
 通行人が殆どいなくなることと、涼しいことから昼間にましてすいすい走れる。
 家に帰り着くと走行時間は四五分だった。スピードにのって走れたのに昼間と同じだけの時間がかかった。理由は皇居前にある。
 皇居前では皇宮警察に呼び止められた。お前は誰か、何故自転車に乗っているのか、どこに向かうのか、どこに勤めているのか、と色々聞かれたあとに登録ナンバーを照会されて放免となった。
 怪しいと言えば、まあ、確かに怪しい。迫撃砲をお堀のそばに仕掛けるのはどの辺りにしたらよいかをリサーチしていると思われたのかも知れない。私は確かにそういう風貌をしている。が、それを先回りして、やたら愛想良く警官に応じてしまう私も情けない。
 後日分かることだが、初日のこの日以降、皇居周りで警察に呼び止められることは全くなくなった。恐らく「皇宮警察警備リスト」のようなものの中に私が書き込まれたのだろう。真夜中に赤坂から日暮里まで走る時代遅れの黄色っぽい自転車に乗る男。何々社勤務、自転車は盗難車にあらず、テロ活動歴無し、呼び止める必要性を認めない。
 妻はまだ起きていた。私は多少興奮して「これから毎日自転車だ」というようなことを言った。ついでに「君も自転車だ」と言うと、考えとくわ、と言った。妻の勤める銀行は上野にあるのに(家から二キロ程度)、その気は全くないらしい。スーツ姿でどうやって自転車に乗れるのよ、というのが妻の言い分だ。

 言葉通り、それから私の毎日の通勤は自転車となった。
 坂道を出来るだけ避けるコースも検討し、一番楽なコースはおよそ一一キロであることが分かった。コースは次の通り。
 日暮里・上野・秋葉原・お茶の水・大手町・日比谷・霞ヶ関・赤坂、となる。
 最速でいくとどれくらいかとチャレンジしたら、夜中だと三〇分で走破出来ることが分かった。
 嬉しいのは、走り初めて一月も経った頃にADの女の子に「ヒキタさん、少し痩せたんじゃないですか?」と言われたことだ。毎日毎日、都合一時間半のエクササイズをやっているのだ。当然と言えば当然だが、私はこれまで、どのスポーツクラブに行ってもその種のことが続いた例しがないから、素直に嬉しかった。

 以下、話はあっちゃ行きこっちゃ行きしながら、まだまだ続きますが、とりあえずはこの辺で……。

魂の叫び