共有自転車という考え方

■「逆転の発想」

 共有自転車という考え方がある。
 街のあちこちに「共有自転車ステーション」のようなものを作って、ステーションからステーションまで、誰でも自由に自転車をつかってイイよ、というようなものだ。AステーションからBステーションまで、はたまたCからD、Eと、どこに行っても無料、もしくは格安均一料金。自転車は「誰の」というわけではなく「みんなの自転車」というわけだ。フリーバイクもしくはデポジットバイクなどと呼ばれたりする。
 100〜500台程度の自転車を導入し、そういう実験をする、またはしようとしている自治体が、わずかながら増えてきた。黄色や水色などの明るいカラーでママチャリを塗り、それを市民に供与する。
 自治体がこの手の実験に取り組むきっかけは、大抵の場合、放置自転車対策だ。
 駅前に並んだ自転車を使っている人々は、1日24時間あたり、1時間乗ればいい方だろう。ならば、残りの23時間を別の人が使うならば、それだけ放置自転車は減るのではないか。そういう発想が原点にあったりする。また、撤去された放置自転車が、やがてスクラップになる、それらの自転車を何とか活かすことは出来ないか、と、そういう考えもあったりする。
 一見、とても合理的な考え方に聞こえる。確かに私もそう思ったことがあった。特にスクラップになるはずの自転車の再利用というのは、まったく魅力的だ。
 だが、それを「公共」というコンセプトに転化するこの考え方に、私は今やまったく賛同できない。これは自転車の共産主義幻想とでも呼ぶべきものだ。

■自転車は旅館のスリッパか

 色々な街の「自転車有効活用会議」または「放置自転車対策会議」のようなものに出る。その度ごとに、参加者の一人、または大勢に「こんなに良いアイディアを考えました」という顔で、こう言われることがある。
 大抵は若手の市議というような風情のちょっと腹の出たオジさんだ。
「僕はねえ、こう思うんですよ。この日本の中では、自転車と傘はみんな公共物にしてしまえばいいって。誰もが使えて、誰もがそこに置いていける、そういう社会になれば素晴らしいと思いませんか?」
 私は「またか」と思いながら、その人にこう言う。
「なるほど。ところで、あなたは最近自転車に乗ったことがありますか?」
 答えは決まって「最近はちょっとねえ……」だ。本当のことを言えば、最近はちょっと、どころか、ここ数年乗ってない。そんなことは私にはもうお見通しだ。
 ある会議の実力者のオジさんは「自転車なんて旅館のスリッパのようにしてしまえばいいのだ」と言った。「旅館のスリッパのようにどこで脱ぎ捨てても次の人が履いていける。ワシは世の中のすべての自転車が、公共のものになることを夢見ている」と続けた。
 実力者の意見に、席についた誰もが頷きながら賛同する。私は蛮勇を奮いつつ、例の質問をする。
「なるほど。最近自転車に乗りましたか?」
「いや、ワシはこの10年というもの自転車などには乗ったこともない。放置自転車があまりに目にあまるから、この会議に参加したのだ」
 私は悲しい気持ちでその答えを聞いていた。
 旅館のスリッパ。そうだろうと思う。きっと彼の思いの通り、そうなった「共有自転車」は、旅館のスリッパのように使い捨てられる存在になると思う。あちこちに置き去りにされたまま、いつしか朽ちていく、そういう存在になるだろう、と。同時に、自転車そのものの価値を貶める結果を生む。放置自転車も共有私有を問わず、間違いなく増える。
 こういった考え方は、常に「無責任」を大量に発生させるだけの結果となる。

■「共有自転車」の見落としているもの

 共有自転車として供することが出来るのは、ママチャリだけだ。それも一番安いもの。これは当たり前の話で、自分の家にある自転車よりもいい自転車だったら、持って帰られてしまう。これまで述べてきたように、ちょっといい自転車にとって20kmや30kmの距離は、ある意味、楽々だから、該当の自治体のエリアから外に出てしまえばお終いなのだ。
 公共の自転車たるもの、余計な物欲を刺激せず、なるだけ簡素かつ見栄えのしないものであること。これは冗談で言っているのではなく、公共物の原則だ。それ以上のものを求める向きは自分で買えばいいのだ。その原則は自転車であろうと同じだ。
 九州のある市で行っている共有自転車は、ユーザが街のエリアに出ないようにするために、わざとペダルの抵抗を大きくしているのだそうだ。何という絶望的な本末転倒。このような自転車の可能性を大いに減じるやり方が、結局のところ「自転車というのはこの程度のもの」という意識を生むことになる。
 さらに言えば、自転車の良さは一方、ドアトゥドアの良さでもある。エリア内に10あっても20あっても、そのステーションはドアトゥドアには決してならない。ユーザはステーションに自転車を返却した後に、どういう手段で家に帰るというのか。
 まだある。当たり前のことだが、自転車というものはメンテナンスを必要とする。細い金属パイプと針金で作られた自転車は間違いなく旅館のスリッパよりも脆い。そして、何が起こるか分からない街の中で、常に転倒、故障の危機と隣り合わせなのだ。その中でパンクする、スポークが曲がる、ワイヤーが切れる。
 その場合、共有車を借りたユーザが自分で直すだろうか。デポジットは無料あるいは500円程度だ。自分の名前も書いてない。それをどこにあるか分からない自転車屋さんまで引っ張っていくことを誰が想定できるだろうか。
 故障した自転車を「チックショー」と思いながらも、それでも引っ張って、自転車屋さんに持っていくのは、それが「自分の自転車」だからだ。
 故障した自転車を救うのは、一言でいって、ユーザの自転車への愛だ。その愛は結局のところ「自分の自転車」という意識なくては持ち得ない。

■「公共」の公共たる意味は何か

 私がこういうことを言うと、必ず意外そうな目で見られる。
「ヒキタさんは自転車の発展普及に力を尽くしているのではなかったんですか?」と。
 文字面ではその通りである。私は出来ることなら、交通のパラダイムシフトを今こそなすべきだと思っている。交通システムの中に自転車を有機的に組み込み、その結果としてクルマを劇的に減らす必要があると思っている。
 だからこそ「共有自転車」には反対なのだ。不毛な実験よりも、もっと他にするべきことはあると思うのだ。
 かつてオランダが2回もそれをやって、2回とも失敗した。盗難とコスト高のためだ。
 ドイツの自転車最先進都市ミュンスターには、レンタサイクルはあっても共有自転車は最初っから無い。断っておくが、レンタサイクルは共有自転車と似て非なるものだ。1日あたり700円程度を払い、パスポートを提示してサインした上で、自己責任において、借りる。レンタル代はメンテとリスクを他人に負わせるための当たり前の負担だ。「共有自転車」とは発想の根本が違っている。
 そして、レンタサイクルはこの街を訪れた人のためのものだ。市民はみな「自分の自転車」を持っている。それを街中にある大小無数の駐輪場に停めている。
 共有自転車の実験は、諸々の問題点、これから考えるべき点を提示しながら、もう終わった。私はそう思っている。
 日本でもつくば市で500台を導入し、やはり惨敗とも言える失敗をした。
 練馬区も西武線の駅前に400台の共有自転車を持っている。だが、10年間、その数は増えない。むしろ350台に減った。10年間もの「長期実験」の末に、である。
 唯一、続いているかに見える(まだ5年に満たないが)九州のある街にしても、学生ボランティアの存在なしにはやっていけないのだ。
 こういう事実に本来はもうそろそろ気づいてもいい頃ではないか。
 なぜ自治体は不毛な努力を繰り返すのだろう。それは、有り体に言うと、自転車のことをあまりに知らないからだ。自分で自転車に乗らないからだ。
 自らが自転車のペダルを漕ぎ出すと、自転車を真に便利に使うために行政がなせばならないことは、別にあることが分かるはずだ。
 公共の公共たる部分はインフラに活かすべきだろう。
 なぜ「公共自動車」がないのかを考えてみるべきだろう。
 そして、もしも「公共自動車」があったとしたら、クルマはここまで発展普及したかどうかを考えてみる必要があるだろう。