った記事はコレなんだけど、まずはその内容をじっくりと読んで堪能してくれたまえ。


朝日新聞東京川の手版03年12月1日付朝刊より


不愉快な「フリー自転車」

 月のアタマ(03/12/1)の朝日新聞朝刊に何だかヤーな感じのする記事が載った。
 記事の内容は上記の如くで、荒川区が共有自転車を導入したというもの。本当に行政とメディアとの「分かってなさ」の連係プレーには、困ったものなのだ。

 この「フリー自転車(=共有自転車)」というのは、そのまま「フリーバイク」を日本語読みしただけのもので、1960年代からヨーロッパ各市で、失敗に失敗を重ね、今では誰にも相手にされない「妄想のプロジェクト」のことである。
「妄想の」が悪ければ「夢の」でもいいな。あくまで「悪夢」の方の夢ではあるが。
 どこがダメか。
 詳しくは私の本「快適自転車ライフ」(岩波書店)あたりを読んでもらうのが一番てっとり早いのだけど、今回はまあ、単純にこの記事についてだけ語ろう。

 ず、この「フリーサイクル制度」とやらは「放置自転車対策の一つとして」始められたことを頭に入れておいて欲しい。(*傍線1)
 で、そのために自転車を200台が導入し(*傍線2)、利用者がひっきりなしに現れるという盛況ぶりとなったのだそうだ(*傍線3)。
 と、まるでイイコトみたいでしょ?
 でも、実はこのあたりがすでに突っ込みどころ満載なのだ。とにかく対策と結果がよく分からない。

 疑問点の第1は「このフリー自転車を使っているのは誰なのか?」ということなのだね。
 誰でしょう? 当然ながら元々の歩行者であります。フリー自転車は「元歩行者」が「あら、便利ね」と言って使うだけなのだ。元々自転車に乗っていた人は、自分の自転車を使うし、こういう用途のためにクルマから降りて自転車に乗る、なんてことは考えにくい、というか有り得ませんね。
 要するに「放置自転車のために」始めた施策なのにもかかわらず、対策とその結果が全くちぐはぐだということ。自転車の放置を、結局200台分増やしただけで、なんら対策になっていない。
 こんなことは、ちょっと考えてみれば、小学生でも5分で気づくことなのに。

 に、その自転車のクオリティだ。
 中古自転車を修理して駅前などに配置した(*傍線1)のはいいが、その自転車はあまりに安易に過ぎる自転車ではないか。写真を見ればすぐに分かるが、単なるママチャリにプレートを付けただけのもの。半径2km程度を移動すれば、あとはもう勘弁という代物だ。そんな距離は最初から歩いていけばいいではないか。そういうところに行政が自転車を用意してサービスするという意図がさっぱり分からない。
 そもそも世界の潮流は「エコロジーのためにもっと自転車を活かそう」という方向に動いているのである。そのためには市民の自転車はもっと高性能なものを、というのはヨーロッパでは当たり前の動きで、あえていうなら、ママチャリみたいな低性能バイクを使っているのは日本だけなのだ。それを行政主導でタダでばらまくという安易さ。

 またそれに輪をかけて絶望的なのが、それでも「区外に乗っていかれた自転車が25台あり、職員が回収に出かけた」という項目だ(*傍線4)。
 荒川区というのは小さな区だから(私はかつて東日暮里の住民でした)、外に乗っていかれたというのはよく分かる。そんなことは最初から予想できたはずだ。それを職員が回収にいくというバカッぷり。当然ながら、回収にいく職員の給料は区民の税金から出ているのである。区外に止めて放ったらかしにするような無責任な輩のために。
 それが1ヶ月半のウチに25台。わずか200台の中で、である。つまり大まかに計算して、1ヶ月で約1割が、区域外に乗り捨てられていくのだ。
 しかも、問題は区域外の乗り捨てだけではない。傍線5にあるとおり、回収修理を要した自転車が、60台あまりもあるというのだ。それを職員は(またはシルバー人材センターから派遣された人々は)黙々と修理する。だが、それは何のために? 考えて欲しい。これは一体、誰のための作業なのだ?

 こうした共有の自転車が、乱暴に取り扱われるのはある種、当たり前なのだ。
 共有物は大切に扱われない。人は自分のものであってはじめて、ものを大切にするのである。悲しいことではあるがコレは現実だ。単なる「現実」であって、モラルの問題なんかではないのである。昔から「駅の置き傘」「銀行の置き傘」が、絶対に定着しない理由はここにある。そんなことは誰にも分かっていたことではないか。

 リーバイクは絶対にうまくいかない。これは現実なのだ。
 古くは1960年代にオランダで実験された。次いでドイツで。フィンランドで。
 だが、彼らは今では、どの都市でもフリーバイクを行ってはいない。もう実験の季節は終わったのだ。彼らは「失敗だった」という教訓を得て、実験を終えたのである。

 唯一、例外的にフリーバイクが成功している街が、デンマークにある。首都コペンハーゲン市だ。
 ただし、市長は「市民は一人一台以上の自転車を持つべきだ」と公言しているし、町中いたるところに、それらの大量の自転車を収容する駐輪場が用意してある。
 言うなれば、彼らは「普通の自転車のための駐輪場設置」という困難な問題から「逃げなかった」。
 そこには「放置自転車対策のためのフリー自転車」などという、阿呆な発想は微塵もない。彼らは対策と結果が全くちぐはぐなことは、しないのだ。
 コペン市のフリーバイクは、ひとえに旅行者のためにある。「旅行者のための無料レンタル自転車」という言い方が、実体に即したところで、荒川の「フリー自転車」などとは、全くポリシーも気合いも赴きも用途も違ってる。

 実は日本でも例がないわけじゃないのだ。
 つくば市で98年に始め、大失敗をした。
 練馬区は10年間もワケの分からないことに税金を無駄に使っている。
 久留米市での実験も、間もなく失敗のウチに終わるだろう。

 誤解してもらっては困るが、私は失敗がダメだと言っているワケじゃない。失敗に学ばないのがダメだと言っているのである。
 荒川区は、この「フリーサイクル制度」とやらを導入する前に、きちんと自転車行政について勉強したのだろうか。失敗例に学んだだろうか。間違いなくいずれも否だ。
 誰かの思いつきで、不意にこうして始めてみて、そして、あと3年も経つと、誰もそんな制度があったことすら覚えちゃいなくなる。
 賭けてもいいが、間違いなくそうなる。
 そして、もう一つ賭けてもいいが、その失敗の責任をとる人間は、絶対に誰もいないのだ。

 イトルに「"試走"は順調」とある。
 一言でいって、笑止千万だ。
 放置自転車には全く効果はないわ、1ヶ月半で200台のうち、25台+60台が、回収・修理にまわるわ、そんな実験のどこが成功なのだろうか。こんなものは一言でいって、まやかしの自転車政策だ。
 そういうバカな制度を「実験はひとまず成功」とする行政の愚かさ。
 そして、それをそのまま紙面にするメディアの無様さ。
 この記事の中で、行政とメディアは脳の動きをまったく停めていると思う。
(03/12/15)


ここだけは岩波アクティブ新書「快適自転車ライフ」から引用