んでいただければお判りの通り、本来、ある場所で発表されるべき原稿でした。諸般の事情からそれが許されなかったため、ここに掲載します。
 それほど面白くはないかも知れませんが、全くつまらないものでもないと思います。
 シカン文化の話は言うまでもないことですが、テレビドキュメンタリーというものはどのようにして作るのか、というのが隠れたテーマになっています。
 ひょっとして、テレビ局に就職希望の学生などには参考になるかも知れません。

 ペルーの北部、シカンの遺跡発掘記です。考古学に興味のある方にも多少は面白いかとも思います。

 4年前に書いた文章なんで、細部に何とも恥ずかしい部分がたくさんあるのですが、まあ、こんなサイトを作ること自体、かなり恥ずかしいことだし、はたまた色々なことがバレバレですが、まあいいや、と敢えて載っけます。かなり長いですからいったんダウンロードされることをお勧めします。

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黄金の都シカンを撮る
   400字詰め原稿用紙換算 403枚(表紙、梗概を除く)

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疋田 智

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 梗概、もしくは「はじめに」

 米国南イリノイ大学考古学教授、島田泉氏が北部ペルーで発見、発掘した驚愕すべき業績「シカン文化」。
 その発掘の一部始終をテレビドキュメンタリーにすべく、私は九五年の後半と九六年の前半、延べ三〇〇日近くを費やし、ペルーと東京で、取材、編集にあたっていた。
 私はTBSテレビの報道番組、中でもドキュメンタリーを作るセクションにいた。
 テレビの制作現場は一人の力で出来ることは少ない。
 一つの番組には、制作(この場合は報道)、技術、美術から編成、営業と少なからぬ人間たちが関わり、少なからぬ金が動き、そしてそこに従事した皆が、なにがしかの充実感と達成感を得たり、得なかったりするものだ。
 だが、多くの場合、その充実感、達成感を最も大きい形で得ることの出来る幸せな立場にいるのが、現地に派遣されるディレクターであろう。
 私は実に幸運なことにその立場に置かれた。
 発掘現場、ペルーでの体験は、実際今から思えば、本当に幸せな充実した日々だった。
 私を派遣した小川外信部長(当時)と西野プロデューサーは、その幸せな体験の見返りとして(でもなかろうが)、私に毎日のペルーでの取材報告をファクシミリで送ることを強いた。
 だが、私はその義務さえ、幸せな日々の一つと思うようになっていった。
 取材報告のファクシミリは日記形式で行きますからね、と宣言し、実際その通りとした。
 日記形式はあくまで日記形式なのだが、それは人の目に触れることを前提とした変なものだ。厳密な日記とは違う。だが、無味乾燥な報告書とも一味違って、読む方にも面白いのではないか、私はそうも思ったりしていた。人の目に触れるものならば、面白いに越したことはない。これはテレビマンとしての本能である。
 東京のスタッフルームに、それを面白がってくれる美女がいたことも私を調子に乗らせた。私は徒然なるペルーの夜に、書き続けた。
 そして、TBSシカンプロジェクトの全てが終わる頃、私は自分で書いたファクシミリの束をを読み返していた。
 ペルーのどこまでも続く大地と、風に揺れるサトウキビと、蜂だらけの大穴と、汗の中で笑うエミリオ氏、エクトル氏、そういったものたちが、色々な匂いや音とともに、頭の中を訪れては消えていった。どことなく苦みのある、それでいて懐かしい充実が、私の心を満たした。
 そして、そこには同時にテレビの放送に表れない何物かがあるような気がしたのだ。私は不遜にもそれらを何らかの形で発表したいと思った。
 以下の多くはそのファクシミリを、大幅に加筆訂正(訂正はあまり無い。ひたすら加筆ばかり)したものである。
 考古学は元々古代のロマンとギャンブル性が入り交じった、実にスリリングな世界だ。そのスリル性を多少なりとも味わって貰うことが出来るのならば幸いと考えている。
 そして、現地でテレビのディレクターが何を考え、どういう具合にテレビ番組が作られているのかを知ってもらえれば嬉しく思う。

疋田 智  



 プロローグ(95/5/20〜95/7/2)

 最初にシカンの何たるかを聞いたのも、その時だったから、同じ会社にいながら、随分と不勉強だったと思う。
 五月末だった。先輩ディレクターの西野氏が、不意に私のデスクにやってきて、こう言った。
「疋田、おぬしペルーに行く気はないか」
 この人はいつもこういうしゃべり方をする。関西出身の顔の長い背の高い手足の長い、つまり何もかもが長く出来ている人だ。その西野氏はその当時、私の担当している番組から、夕方のニュースに移ったばかりだった。
 ぬうっと立って、私の前の視界がせばまる。
 何の取材かと問えば、シカン。
 TBSが何だか力を入れているとのことで、その名前だけは聞いていたが、実のところ、その当時私が知っていたのは、何やら南米で新しい遺跡が発掘されたらしい、ということだけだった。何でも金がザクザク出るらしい。
 あの人気番組、赤城山の金探しも相変わらず行われていたから、弊社は随分と穴掘りが好きなのだなあと思っていた。
「取材期間は二カ月や。どや」
 半分しか開けない目で、そう言う。そういう顔なのだ。長い顔が瞼を引き伸ばしてしまったのだ。
「ただし成功すればの話だがな」
 成功する、しないに関してはさっぱり要領を得ない、つまり何のことやら分からないが、南米に二カ月である。
 私はすぐに飛びついた。
 当たり前なのだ。その時の状況からして。
 当時、私が担当していた番組は、後日「悪名高い」という存在にさせられてしまう「スペースJ」だった。その頃「スクープ第一二弾」まで飛ばしており、視聴率は常に二〇パーセントを越えるという、どうにも報道番組としては実に異常な時期を過ごしていた。
 勿論、オウム真理教事件である。
 週一回の番組ではあるが、スクープを続けていくのは大変なことだった。だが、オウムの事件は底が知れなかった。毎週毎週新たな事実が出てきて、それを取材すると、更に新たな事実が出てきた。
 一度、視聴率をとってしまうと、後には帰れない。
 視聴率には拘らない、だが、視聴率は気になった。それには事情がある。
 私は、この番組にスタート時から関わってきた。
 番組スタッフの士気は高かった。
 我々の間には、番組が始まった頃から、ゴールデンタイムに民放のドキュメンタリー番組を根付かせよう、というスローガンがあった。
 欧米各国ではゴールデンタイムに民間放送局がドキュメンタリー番組をやるのは至極当たり前である。アメリカでは、視聴率上位に、いくつものドキュメンタリー番組が顔を出している。
 それに引き替え、日本ではどうだ。民放各局のゴールデンタイムの放送内容は、良い番組、そうでない番組とは言わないが、それでも、確実に言えるのは、全てがドラマかバラエティショウである。
 これで良いのか、と我々は思っていた。
 商業放送だから、それなりの視聴率をとる必要はあるが、だがそれ以上に、この時間帯に報道番組を根付かせたい、そういう思いがあった。
 もともとTBSが、この時間に報道番組を持ってきた理由は別にあった。
 理想よりも現実、つまり本来は映画番組の枠であったところが、映画を買う値段が年々高くなり、「それよりも低予算でゴールデンの枠が埋まらないか」というところから始まったのだ。ジャーナリズム云々などという話ではなかった。
 だが、そんな「きっかけ」はどうでもよい。
 我々、現場のスタッフには「ゴールデンタイムジャーナリズム」なるものを作っていこうとの心意気があった。マイナーに逃げず、無味乾燥の教科書にならず、しかし伝えるべきところは伝えていく、そういう放送は出来ないかとスタッフは思っていた。
 だが、それでも番組開始当初は絶望的な低視聴率の中に喘いでいた。甘くないのだ。
 質は良い。そう確信していた。幾つかのヒットもあった。新生党の疑惑のスクープもあった。誰も注目しない法廷ものもあった。広域詐欺事件に関しても警察より先にそれを追及していった。
 だが、水曜日の他局のとんねるずのバラエティショウと織田裕二のトレンディドラマに挟まれては、苦戦は必至だった。
 どんなに質の高いものを出しても、視聴者はそもそもチャンネルと合わせてくれない。何度も絶望感を味わった。
 そこに起こったオウム事件である。
 我らの番組は、偶然、ロシア取材を試みた後だった。あくまで「怪しげで危ない、胡散臭い新興宗教」として。
 そして、松本サリン事件にも、我々は多くの時間を割いて取材に当たっていた。そして、我々は「現場周辺に住んでいた会社員、河野氏は犯人ではないのではないか」という結論にたどり着いた唯一のテレビ番組でもあったのだ。
 オウム真理教の匂いを、その松本市周辺に感じとってもいた。
 偶然だったが、それが当たった。そして、その前提があったからこその内偵取材があり、放送予定が立たないままのディレクターたちの奮闘があった。
 それらの蓄積があったから、我々は本当の意味でのスクープを連発できた。
 我々のフットワークはあらゆる局に水をあけていたと思う。勿論TBS社内を見てもそうだ。ゴールデンタイムだから予算もそれなりにあった。出すカメラの数をケチるなどということはしなくてすんだ。これもよかったのだと思う。
 オウム真理教への強制捜査の日、その日から視聴率は二〇パーセントを越えた。
 そして、そもそもの取材の始まりから、他局に先駆けてたから、その後もスクープを快調に飛ばすことが出来た。
 最高視聴率は三二パーセントを記録した。レギュラーの報道番組ではテレビ史上最高だった。
 興奮と疲労の中の取材活動で、私も殆ど家に帰らない生活を続けていた。
 だが、それから二カ月が経ち、三カ月が過ぎようとして、相変わらず熱狂は収まらない。イヴェントは幾らでもあった。岐部が、林が、井上が、そして麻原が逮捕された。後に残った出家信者達もいた。視聴者はまだまだオウムを見たがっていたのだ。
 だが、私はもう飽きていた。
 と言うより、身体が持たなかったのだ。
 あの髭面と、顎野郎と、ガリ勉野郎を見るのももううんざりだった。
 そこに長い顔である。
 長い顔はペルー行き、それも二カ月帰ってこなくてよし、という信じがたい逃げ場所を提示してきた。そこに乗らないわけがないのである。
 他のスペJスタッフ諸氏よ、申し訳ない、と思いながらも、そんなことは何の決断の妨げにもならず、私は七月からのペルー行きを即座に決めた。
 で、シカンである。
 そもそもが何のことだと思っていた。黄金が出る、ペルー、昔の遺跡らしい。それしか知らない。シカンについては私は白痴だった。
 それがバレるとせっかくのペルー行きが無くなる、と私は西野氏の前で、知っている振りを装ったが、無駄だった。私が知っているのは、結局のところ右の三つだけだったから、西野氏は呆れ、それでもなぜか、じゃあ疋田はやめた、ということにはならず、その代わり、これこれのビデオを見ろと指示した。
 さらに、字の小さな本を十冊ばかり積み上げ、「これ読め」となった。
 本の著者は様々だったが、その中の二冊を書いたアメリカの教授がいた。その人の名前を島田泉という。そもそもシカンという名前からして、この教授が名付けたものだった。
 だが、恥ずかしながら、私はここで初めて、島田泉の名を知ったのだった。
 
 新大陸が、欧米の歴史に組み込まれたのが、一四九二年。勿論、コロンブスアメリカ大陸「発見」の年だ。
 周知の通り、当初はアジアへの最短経路を築こうと行われた航海だった。だが、その航海の意味あいは、アメリカが新大陸であるという認識後、すぐに変わっていく。
 その大陸はどうやらアジアではない。とてつもなく大きい新大陸、かつ、そこの住民の話では、奥地には黄金が沢山採れるところがあるという。文字どおりの一攫千金が狙える。
 そして、新大陸はヨーロッパで成功することが出来ず、新天地で一旗揚げて野郎という荒くれどもの集まる場所になっていった。
 その荒くれどもを特に支援し、その黄金を祖国に持ち帰らせようとしたのが、当時の大帝国、スペインとポルトガルだった。
 彼らはより多くの黄金を求めて、メキシコを越え、パナマを越え、アメリカ大陸を南に向かうことになる。
 現在のペルー国周辺にその侵略の手が伸びてきたのが、一六世紀。その時のスペイン人提督が、フランシスコ・ピサロだった。
 ピサロはたったの一四〇人の軍勢を率いて、二万人ともいわれる、当時のインカ帝国の軍隊を打ち破った。勝因は何と言っても、インカ帝国が鉄砲と馬を知らなかったことにある。
 当時の、そして最後のインカ皇帝、アタワルパは、あっという間に囚われの身となった。
 征服のその後、ピサロ率いるスペイン軍が驚いたのは、インカが持つその莫大な黄金の量だった。囚われのアタワルパは、石で作られた牢獄の中で、こう言った。
「余の命を助けるならば、余の家来に命じ、この牢獄をこの手の高さまで黄金で埋めて見せよう」
 そして彼は右手を頭上高く差し出したのだという。
 その黄金は本当に集まった。スペイン人たちはまたもや腰を抜かした。
 元々黄金だけが目当てだったスペイン人たちは、その集まった金銀財宝を殆ど溶かして、単なる金の延べ棒にして、本国に送ってしまった。その黄金の財宝に、いかに精緻な装飾がなされ、いかに聖なる意味があろうとも。
 溶かされた黄金の量は何百トンになるのか。今となってはそれがどれくらいの量で、どのような形態を元々持っていて、どこに流れていったのか、殆ど知る術がない。
 だが、スペイン人たちの執拗な搾取にも負けず、インカの黄金の一部は残った。

 世界各国の色々な博物館に、その一部は展示されている。勿論ペルーの博物館にもある。
 そしてそれらの黄金製品、黄金製の仮面や飾りものなどは皆、十把一絡げに「インカの黄金」だと呼ばれていた。
 インカ帝国以前に関しては、殆ど分かっていなかった。
 アンデスの歴史には文字が存在しなかったから、インカ帝国を征服したスペイン人たちのあやふやな記述しか、それを読み解くものが無かったからだ。
 巨大なインカ帝国はどのようにして築かれたのか、インカ帝国以前に、アンデスにはどんな歴史があったのか。
 インカ以前は、謎だらけだった。
 そしてインカ製とされたその黄金の遺物についても謎が多かった。
 例えば、インカの黄金とされるものの中に多数の「巨大仮面」というものがある。人間の顔の三倍くらいの表面積を持ち、耳飾り、鼻飾りなどがついている。極度に図式化された目と鼻と口を持ち、そしてそれらの大きな目はカッと見開かれ、必ずつり上がった形をしていた(このつり上がった目のことをアーモンドアイという)。
 黄金と銀と銅との合金で出来たこれらの仮面は、何のために作られ、どのように使われていたのか、全く分からなかった。これらもただ、インカ帝国に伝わる黄金の装飾品としてだけ理解されていたのだ。
 黄金製品についての根元的な問い、いったいこれらの黄金はどこから来たのか。
 それは二〇世紀に入っても、もっと時代が下っても、アンデス考古学者たちの一番の研究テーマだった。そして、その研究者の一人が日本人考古学者、一七年前の若き島田泉だったのだ。
 島田泉は日本人である。だが、彼は子供の頃、大学教授だった父親についてアメリカに渡り、一四歳にしてその地に残ることを決意した。
 そして、プリンストン高校、コーネル大学と進む中で考古学にとりつかれていた。
 彼のテーマはペルー北部のアンデス文化だった。
 当然、その地方から発掘されることが多いという黄金の発掘品、中でも「仮面」を多数見ることになる。それは当時、インカ製とされていた。だが、彼は何かが違うと感じていた。
 彼が特に着目したのが、発掘品に刻まれる神の目と「仮面」の目だった。
 遺物に描かれた神の目には二種類がある。
 丸いものと、つり上がったものだ。つり上がったものの方が圧倒的に多い。仮面にいたっては、その全てがつり上がった目を持っている。
 彼は、これらのつり上がった目は実はインカのものではないのではないかと考えていた。
 何故ならば、つり上がった特有の目を持つ土器などは、ペルー北部の海岸地域から集中的に出土していたからだ。
 学生時代のフィールドワークで北部ペルーに訪れてから、彼はそこにこだわり出していた。
 ペルー北部には何があるのか。そこはペルーの歴史の中でどんな意味をもつ地域なのか。
 ペルーには、観光地としても名高い派手な遺跡が幾つかある。
 空中都市として名高いマチュピチュの遺跡や、インカ帝国の首都、クスコなどだ。多くの学者たちはこの地の、それらの遺跡に注目していた。
 ペルー北部は考古学上の、当時、一種のエアポケットの様相を呈していた。
 だが、そこには大きな土の山がいくつもあった。一〇〇〇年前には神殿であった筈の、日干し煉瓦(アドベ)の塊が崩壊した姿だ。
 その土の山が集まる村があった。
 その村の名をバタングランデ村という。
 彼はバタングランデ村に何度も足を運んだ。そして、そこに、まだ発見されていない国があり、文化があると確信するようになっていった。
 彼はその文化に「シカン」=月の神殿と名付けた。
 それからの彼の人生はこのシカン一色となっていく。ペルーに訪れては、データを集めた。
 「金を盗みに来た悪い日本人」と地元の新聞に誤解されたこともあった。白人ではない学者ということから差別されたりもしたそうだ。現地のペルー人たちに言われの無い中傷、非難も受ける。
 だが彼は負けなかった。そして時が経つうちに、その熱意は次第に住民たちに信頼されていく。
 彼は自らが名付けた「シカン」こそ、インカの黄金のルーツではないかと、考えていた。
 仮説は次第に形を持ってくる。
 それはこうだ。

 この地には、インカ帝国以前に、ある宗教国家(島田がシカンと名付けたもの)が存在した。それは恐らく一〇〇〇年前前後に何らかの(洪水ではないかと島田は考える)理由で滅びた。
 そしてインカ帝国に征服された後、インカがその莫大な黄金を持ち帰った。それが現在、インカの黄金として残っているものだ。
 黄金製品に描かれた、つり上がった目を持つ人物像はシカンの神だ。つり上がった目の巨大な仮面は、シカンの王、もしくはそれに準ずる人物が着けていたものであろう。
 そして、インカに持って行かれなかった黄金や様々な遺物もこの地にはまだ残っているに違いない。それは墓に副葬品として埋葬されている。

 この地に多数いる盗掘者(ワケーロ)も、同じものを多数掘り返していた。
 バタングランデ地域の学術的発掘は未だになされたことがない。それを行うことが、シカンの、そしてインカの黄金の謎を解くことにつながる。
 発掘には金がかかる。当時、彼がいたハーバード大学の研究費だけでは無理だった。
 島田は、スポンサーを探した。困難だったが、それは何とか見つかった。それがTBSだったというわけだ。
 島田は一九九一年、風化した神殿の一つ「ロロ神殿」を掘った。
 それは彼自身の学者生命を賭けた大発掘だった。
 そして島田はその賭けに勝った。
 島田がここだと見込んだ所に、墓は実在した。それはまるで黄金の蔵だった。そして墓の主はやはり黄金製の巨大な仮面を被っていたのだ。
 目は確かにつり上がっている。シカンの神の顔そのものだった。
 シカン帝国は一〇〇〇年前のこの地にやはり実在したのだ。 

 西野氏に手渡された文献を読むにつけ、私は少々驚いていた。
 これはひょっとして、いやひょっとしなくても大変なことではないのか。
 単身米国に渡った、日本人学者が、今、世界の歴史を塗り替えようとしているのだ。文字どおりに歴史の教科書に新たな数ページを刻もうとしているのである。
 このような歴史が変わる現場に私は立ち会おうとしているのだ。
 何だか感動的な話であるな。さて、俺はどのようにベストを尽くそうかと考えて、「待てよ」と思った。
 本によると発掘は既に終わっている。莫大な量の黄金製品も、既に修復を終え、あろうことか、日本で展覧会までやっているというではないか。
 俺は一体ペルーに何を撮りに行くのだ。私の頭は混乱した。
 本には続きがあった。

 さて、島田が掘ったその墓は実に奇妙な墓だった。
 この墓の主人は、あぐらを掻いた形でひっくり返され、逆さまに埋葬されていた。そして、更に奇妙なのが、首だけは切り落とされているのだ。その首が、あの巨大なシカンの仮面を被り、胸の前に正常な向きに置かれていた。
 その顔はまっすぐに西を向いている。
 また墓の主人のさらに下に埋められた二メートルはあろうという巨大な手袋は、黄金のコップを西向きにちょうど捧げもつように握りしめていた。
 逆さまの格好で、全てが西へ。
 いったいこの墓の西には何があるのか。島田はこう考えた。
 島田が掘った墓は、ロロ神殿のプラットホームと呼ばれる部分の東側にある墓だった。
 それを挟んで、逆。つまり西に墓があり、そこに全てを読み解くカギがあるのではないか。
 西の墓の別の主人が、東の墓に対応しているのではないか。逆さの意味、シカン文化の意味がその西の墓の発掘によって分かるのではないか。

 その発掘は七月に始まる。
 この七月だ。
 シカン第二の発掘、それを私は撮りに行くのだ。
 テレビディレクターにとって、それは非常に意味のあることだった。何故ならば、東の墓の発掘は、あくまで黄金が出土し、シカンの仮面が現れてからの取材だったから、映像は既に発掘された穴から、発掘品が出てくるところに偏っている。弊社は島田教授にそこまで賭けることが出来なかったのだ。
 だが、今回は違う。墓を掘る、最初から最後まで、徹頭徹尾、その発掘を見つめ続けることが出来るのだ。
 私は震えた。

 ペルー行きの準備は、孤独な作業だった。何しろプロジェクトの人員が少ない。おまけにその少ない人数の一人一人がそれぞれ別個の仕事を抱えているときている。
 外信部の小川邦夫部長が制作プロデューサーである。制作プロデューサーとは、つまり番組の一番偉い人というわけで、例えば番組のエンドテロップの一番最後で「制作 だれがし」と出る人だ。予算、人事などを管理する。
 小川部長はかつて「小川キャスター」と言った。「ニュースデスク」「報道特集」などのキャスターを務めた、一般にも丸い顔の知られた人だ。今回のシカンについても、九〇年の発掘開始当初から関わっている。当時はキャスターとして。だから、今回に関しても、彼は制Pとしてだけではなく、出演者としても関わってくる。
 彼はこのシカンプロジェクトに関わりすぎて、やがて外信部から不評を買うようになってしまった。外信部長はTBSの外国ニュースの全てを統括する役職だから、南米の話ばかりやっていては困るというわけだ。それでも彼はニコニコといそいそとシカンの仕事ばかりやっていた。彼はシカンが好きなのだ。
 二人目が例の西野哲史氏である。
 彼はプロデューサー。つまり番組のコンセプトを決定し、出演者を決め、その他諸々の番組放送に関しての面倒くさいことどもをこなしていく役目だ。九一年からこちら、彼はシカンプロジェクトのディレクターだったのだが、今回はその役を降りた。これが彼の初のプロデュース番組なのだ。
 この人は実に報道人的な真面目な人である。
 どちらかというと、私は番組をより面白い方へ面白い方へ持っていきたい人間なのだが、彼はそれを「いや、それは正確には事実と食い違う」と待ったをかける。私もやはり後から考えると、西野氏の方が正しい、と思うことが多い。ドキュメンタリストなのである。彼は。
 で、ディレクターが私。ディレクターというのはそのままの意味で言うと現場監督のことで、つまりはテレビ記者である。現地に行ってカメラマンにあれ撮って、これ撮って、と言い、インタビューをし、原稿を書き、VTRの編集をする人間のことで、通常、この手の番組には二人、三人はいるのだが、今回の場合、私一人。
 ADは無し。放送の目途が立ったら雇おう、ということだった。
 番組デスクの名前を穴水園子女史という。まず特記すべきは彼女が大美人であることだ。この時点では年も謎、出自も謎、何もかもが謎の美女である。言葉遣いも柔らかく、実に「理想的な美女 ン土肥カメラマン(後に登場)」である。
 番組デスクとは伝票処理から飛行機の手配から、そういったことをこなしていく、つまり番組付きの秘書である。私及びカメラクルーの飛行機の手配、ヴィザ取得、その手のことは何もかもやってもらってしまった。優秀な番組デスクがいると、ディレクターは気楽なものなのだ。
 TBSの中にいるのはこの四人だ。
 だが、これにプラスして重要な人物が二人。
 一人は現地コーディネーターの義井豊氏である。
 義井氏はペルー在住一四年の日本人カメラマンで、首都リマに住んでいる。
 フリーのカメラマンなのだが、共同通信のペルー駐在記者も兼ねている。口髭がダンディな、穴水女史の一ファンである。さらにスペイン語の通訳も兼ねる。
 一番最後にはテレビレポーターすら兼ねてしまった。私が画策したのだ。
 いずれにせよ、彼がいなければ私のペルー取材はにっちもさっちも行かなかった。こうやって今、私がシカンの取材記を書けるのも、全ては彼のおかげなのである。
 そして更に、御大である。南イリノイ大学の島田泉教授だ。
 シカンの名付け親で一七年前にシカンの全てを始めた人。先にある通りである。私はこの教授に六月の下旬に初めて会った。TBSの一一階の喫茶室だった。シカン展覧会の打ち合わせのためにアメリカから来ていたのだ。
 とんでもなく分厚い眼鏡をかけた無口な人だった。
 一見の客には見向きもしないという感じだ。付き合い難そう、というのが私の第一印象だった。
 彼の実際の、その本質はこの時点では明らかではないが、私は、この顎髭の教授の無口さに一抹の不安を抱きながら、ペルーに行くことになった。以降、最重要の登場人物となる。当然である。
 教授はTBSでの打ち合わせが終わると、すぐにアメリカに帰国した。恐らくはこの時点では私の顔すら覚えていなかっただろう。
 取材の前にこれでは少々困るのだが、帰ってしまったものは仕方なく、ペルーでリターンマッチということだ、と私は兜の緒を締めた。
 勿論、これ以外にもカメラマンや通訳さんなど、重要なる登場人物は多数出てくるが、それは本記の中で追々紹介していくことになる。

 さて、ペルー行きの日取りは刻々と迫るのだが、私の方はといえば、相変わらずオウム関連の仕事が多く、面倒な手続きは殆ど穴水女史に任せきりになってしまった。
 小川部長や西野氏にに「大丈夫なのか、あれはもうやったのか、もうあと○○日しかないのだぞ」などと言われながら、穴水女史に全面的なサポートを受けつつ、細かなことをノロノロと(そう見えたことだろう)片づけていった。
 こういうときに手続きが面倒で、かつうるさく言われるものの一つに機材関連のことがある。
 この手の長期滞在の撮影機材は全部で二〇〇キロを越す。さらに今回は「地中レーダー」という奇妙なものを持っていくので三〇〇キロになんなんとする。
 これは勿論、手荷物の範囲を越えているから、別個の料金を取られることになる。これが馬鹿にならないのだ。一キロ単位で料金が取られ、場合によっては人間二、三人分と同じになったりする。
 今回のシカン取材は、放送の目途がまだ立っていないこともあって、予算が極端に制限されているから、そこで、航空会社と交渉、ということになるのだ。
 クイズ番組などで「賞品はハワイ三泊四日の旅です」などというときに、飛行機とそのロゴマークが大写しになることがよくあるが、あの種の交渉だ。
 現在では、航空各社は「あんなものは大してコマーシャルにならん」と見切ってしまっていて、そんなことで、只で載せてあげたり出来ないよ、ということになっているが、じゃあ、せめて荷物代だけでもチョビッとでいいから負けてよ、ということを交渉するのだ。相手はブラジルのバリグ航空だった。
 その交渉は成功した。
「前回はそれでOKだったじゃないですか、もう」
 という穴水女史の一言が効いたのである。
 機材についてはさらに面倒なことがある。
 テレビの撮影機材は高価なものが多いから、特に発展途上国に行く際には、その登録が必要になってくる。
 もしも現地で売られたりしたら、外貨が出ていって、貿易赤字が更に拡大してしまう。こんなものには本来、高率の税金を取らねばならないというのに、という相手国側の危惧だ。
 だから、持ち込んだ機材は、寸分違わず日本に持ち帰ること、という約束をさせられるのだ。そして、カメラからマイクからバッテリーチャージャーから、全てメーカー名とシリアルナンバーを登録させられ、それを在日の大使館に申告して書類を作成してもらい、現地のあらゆるところでチェックさせられる。
 これをカルネという。
 これは結構厳しくて、現地で機材が壊れるようなことがあったとしても、その残骸を税関に提出しなくてはならない。税関を出るときと入るときで、重さが変わったりすると、モノによっては「中身だけ取り出して売りつけたのではないか」などと思われたりして、長々と動作チェックされたりもする。
 また、そういうことで難癖をつけて、賄賂をとろうとするような職員もいるのだ。国によっては。
 私も一度、某国でやられた経験がある。

 とにかく雑多な準備があって、カメラマンとサウンドマン、現地でのスタッフも決まって、かつスペースJの放送も相変わらずで、結局何だかんだと、穴水女史の指示するとおりに私は動き、その当日は、やってきた。
 穴水女史はにっこり笑って、お守りよと、私に折り鶴をくれた。
 私は感動したが、前回もそれ以外の時も、そうしているのだそうだ。私は後で聞いて、少なからずがっかりした。
 西野氏と穴水女史が、地下の駐車場で我々を見送った。

*これ以降が現地から東京へ送られたファクシミリである。
 最初に述べたように、日記形式の、かつ他人の目に触れることを前提にした、よく分からないものだ。
 それに、私は日本に帰ってきてから、大幅に加筆してしまったので、さらに訳が分からなくなった。しかしながら現在でも、私にはまだまだ書き込みたいことが沢山ある。
 それだけ魅力的だったのだ。ペルーは。発掘は。



第一章 バタングランデ村

 95/7/3

 早朝のロスアンジェルス国際空港。ただし、早朝というのは日本時間であって、こちらでは一三時。およそ二時間のトランジットである。ロスの乗り継ぎは、殺風景な部屋に隔離されるので気が詰まる。おまけにこの部屋の照明が暗いのだ。
 ちっぽけなファストフードのカウンターのようなものがある以外は何もない。
 ここに二時間。膝の上にパワーブック(これを書いているノート型パソコン)などを広げているのも、何だか馬鹿馬鹿しく、なあに考えてるんだ、格好つけちゃって、などと思われないかしらなどと思ってしまって疲れる。
 かといって他に何もすることがない。椅子の色は黒。鉄のパイプとビニール製の「殺風景な椅子とは私のことです」と英語で喋りかけているような代物だ。
 時計の針を見る回数が増える。時の経つのが遅い。
 本当にお昼なのだろうか。窓もないし、雰囲気がひたすら暗い。
 タバコなど喫おうとすれば、なおさらだ。暗く細長い部屋のはじっこの喫煙室に出かけていき、暗そうな日本人と韓国人と「やーはは、私たち、まあだ煙草なんか喫ってるアジアの黄色い野蛮人でえす」という気分にならなくてはならない。
 お喋り好きな地中レーダー技師、渡辺氏も黙って時計を見ている。カメラマンの土肥氏もVE(ビデオエンジニア、主に音声を担当する)の内田氏もひたすら黙っている。

 で、今、リマのシェラトンホテルについた。こちらの時間の深夜一時に着いたので街には誰もいない。思ったより普通だ。
 低層住宅やこれ又低層の工場が立ち並ぶ中に太い道路が走っている。街はフォルクスワーゲンのビートルばかりが目に付く。当然のことながら深夜だから道を歩いている人々は少ない。時折歩いている人々の中になぜか長い棍棒を持ち歩く三人くらいの若い男たちがいた。チンピラたちだそうだ。最近のペルーはゲリラたちのテロより、こうしたチンピラ兄ちゃんの起こす事件のほうが多いという。
 街にはオレンジ色の街灯がつく。オレンジ色の街灯は人々の、または建物の影を際だたせる。空港に降りたときからこうだ。影が神秘的にさえ見える。こういう光景は好きだ。

 リマの国際空港には義井氏と、エミリオ氏と、日本電波ニュース社リマ支局の下野氏が待っていた。最初から面識があるのは義井氏だけである。この三人はこれから先、何かと関わってくるはずだ。うまくやっていければと思う。
 エミリオ氏にはこれからの道中の通訳を務めて貰うことになる。
 彼はペルー育ちの日系二世で、日本人をちょっと色黒にしたという風貌を持つニコニコおじさんである。フルネームで、エミリオ木原さんというそうだ。NHKの磯村元キャスターによく似ている。だが、磯村氏のようなインテリ然としたところは微塵もなく、とにかくよく喋る五〇歳だ。
 話には聞いていたのだが、喋る内容は冗談ばかりである。フランス小話みたいな話ばかりをして、自分で、なーははと笑う。
 我が東京シカンスタッフたちには、少々生真面目なところがあって、東京を出る前、小川部長や義井氏は「エミリオは下らない冗談ばかり言う、あの癖さえなければ良いんだがなあ」などと言っていたが、なんの、私はこういう人物は好きだ。面白いではないか。事実、その面白さを日本の旅行各社に買われ、彼は旅行ガイドとしても引っ張りだこなのだそうだ。

*無論、日本の海千山千の旅行社が彼を重宝する理由は、それだけではなかった。彼は旅行コーディネーターとしても一流で、観光客を喜ばせる見せ場のツボ、その紹介の仕方、そして何が面白いかをチョイスする技量を持ち合わせている。
 これは偶然だが、シカンの放送が全て終わった後、私の母の友人がペルーに行き「ガイドの木原さん(エミリオ氏のこと)が最高だったのよ」との感想をもらしていた。

 エミリオ氏は下らない冗談を連発しつつ、てきぱきと我々の機材をマイクロバスに積み込み、やはり笑いながら空港を去って行った。
 彼と運転手ロンメル氏はこれからマイクロバスで三〇時間かけて、ペルー北部の町、チクラヨ市に向かうのだ。我々とはそこで落ち合う。このチクラヨ市が、これから我々の過ごす町になるのだ。
 どんなところだろうか。だが、我々にとっては、まず目の前のリマ市がどんなところだろうか、である。
 シェラトンホテルは恐らくこの街一番の高級なものの一つなのであろう。実際に五つ星が入り口に掲げてあった。部屋も広い。ただ、東南アジアのようにばりばりに高級というわけでもない。何だかどこかに薄汚い風情がつきまとっている。後で聞くと、街の中心地が移ってしまって、かつては高級だったものが、落ちぶれてしまったということらしい。
 ホテル全体の真ん中に吹き抜けがあって、まるで東京のマンションのようだ。テレビをつけるとほとんどが英語である。ただ、この国の住民はほとんど英語を理解しない。何のための放送。恐らくこの手のホテル類だけを対象としたケーブルテレビジョンなのであろう。
 スタッフは私のほかにカメラマンの土肥氏、VE、サウンドマンの内田氏、そして、地中レーダーの渡辺氏だ。渡辺氏は非常によくしゃべる。エミリオ氏と良い勝負だ。

95/7/4

 で、翌朝である。八時に荷物の積み込みが終わって、朝食を食べて今。暇があれば、いつでも書いていくつもりである。
 食事は思ったよりも高い。ホテルの中だからだろう。
 こちらの通貨は「ソル」。一ドルが二・一ソレス(複数形)だ。だから、円に換算すると、五〇円がおよそ一ソルということになる。
 朝食が一四〇ソレスだったから一四〇掛ける五〇でおよそ七〇〇〇円。四人分である。一人当たり約一五〇〇円、東京並だ。高い。

 帰ってくると、午前一時になっていた。
 今日のスケジュールは、午前中に外務省。
 ペルー国内取材の記者証を貰った。外務省は小さかった。外務大臣公邸と言われたとしても、あまりの狭さにびっくりしたことだろう。恐らくは公邸はもう少し広い。
 案内してくれる義井氏には実にたくさんの知り合いがいる。街を歩いていると様々な人が声をかけてくる。勿論外務省の人間も顔見知りだ。リマが狭いのか、それとも義井氏の顔が広いのか。
 ペルーには七〇パーセントの貧困層がいるという。恐らく日本人とのつきあいがあるのはそれ以外の三〇パーセントとなるのだろう。そしてその中でもさらに一部だ。
 午後には二つの博物館を廻った。一つ目は天野博物館。日本人実業家のコレクションだそうだ。どおりでボランティア(この博物館の館員は殆どがボランティアなのだ)による説明が、やたらにペルーと日本を関連づけたがっているようなものとなっていた。説明は皆「天野説」として聞くべきだそうだ。義井氏の話によると。
 義井氏はかつてここの学芸員をやっていたこともあるという。
 考えてみると、この義井氏とは一体、何者なのだ。
 彼はTBS取材班の一員でもあると同時に、発掘団の一員でもある。日本語とスペイン語を解す。ペルー在住一四年。島田教授とは非常に親しい。カメラマンで、日本に紹介されるアンデスの発掘品の殆どの写真を手がけている。共同通信のペルー駐在員も兼ねる。そして元日大全共闘だそうだ。
 そしてペルーの遺跡と遺物に関してめったやたらに詳しい。
 とにかく、今のところ我々は全て、今日のスケジュールにしても、泊まるホテルの予約にしても、下駄をこの髭のおじさんに預けている。
 二つ目は国立の黄金博物館。多くの偽物が混じっているとしても(義井氏によると混じっているのだそうだ)、その量には圧倒される。
 そして、その中には例のアーモンドアイ、つまりシカンの遺跡の特徴である、つり上がった目を持つものが多数含まれていた。
 その一片が今回の発掘、中でもこの一ヶ月の間に出れば。
 すべてはが変わる。何より予算が出る。

*一番最初に西野プロデューサーが「成功するなら」と言ったのはこのことである。我々テレビ局にとって、今回の発掘で重要なことの一つに「黄金が出るか出ないか」があった。
 テレビ局にとっては「幻の遺跡から、またも黄金がザクザク発見された」というキャッチフレーズが非常に重要だったのだ。それはスポンサーがつくかどうかに重く影響し、すなわち番組が成立するかに直結し、すなわち、予算が出る、疋田が引き続き取材を続行する、という結果を生むのだ。
 私はこの回のペルー取材に際し、一カ月の猶予を与えられていた。その一カ月で何もなければ、しようがない、疋田は帰ってきて、それでおしまいだ、と脅されていたのだ。主に小川部長から。

 その後、島田教授との食事会となった。松栄という名の高級和食、寿司屋である。旨かった。雲丹をあんなに大量にいっぺんに食べたのは初めての経験だった。しかもそれははっきりと形を残し、甘い香りが濃厚な幸せなものだった。最後のお茶漬けの梅干し(ただ単に辛くて酸っぱかった)を除けば、その寿司の味は日本で食べるものに何の遜色もない。流石は海産物の国なのだ。 
 島田教授も思いのほかフレンドリーだった。東京で最初に会ったときは、何とも無口でしかめ面で一言もしゃべらず、こんな偏屈教授とこの先いったいどうなることやらと思ったものだったが、杞憂に終わりそうだ。あくまで今の段階では。
 しかし、それより地中レーダーの渡辺氏の方が、何かと文句の多いオヤジで、結構たまらない存在になるかも知れない。こちらの方が杞憂に終わればいいのだが。
 で、結局一一時半に帰ってきた。疲れた。
 このホテルはシェラトンホテルアンドカジノと言うのだが、というわけで当然ながらカジノがある。で、覗いてみた。四〇ドルをチップに替えてスロットマシンからやってみたのだが、駄目で、ルーレットに代えた。
 マカオでの苦い思い出があるもので、慎重に慎重に賭けた。マカオは実にレートが高くて、確か最低の掛け金が一〇〇香港ドルではなかったかと記憶している。実に当時最低三〇〇〇円ということだ。三回半瞬きをしている間にスッて、もう二度とやるかと思った。こちらは違う。最低が五セント。
 なんと言うことだ。スロットマシンでスッてもスッて四〇ドルがなかなかなくならない。スロットマシンは正直言って飽きた。で、ルーレットだったのだ。
 ルーレット台に一人で座って五ドルずつ賭け続けた。なぜか勝った。八〇ドルになったところで、やめてしまった。もっと儲けることが出来るような気もしたが、いいのだ。こういった遊びの賭けに勝ったのは初めてだ。驚いた。わずか四〇〇〇円の勝利だが、万歳だ。トラトラトラ我奇襲に成功せり。
 良い一日だったといえる。
 明日はチクラヨ入りである。
  
 95/7/5

 別にこれといってのノルマはなかったのであるが、何だか疲れた。時差が今日一日に集中してきたのだろう。
 リマ国際空港で二時間以上待たされた。
 ペルー北部の唯一とも言える都市、チクラヨに飛行機で行くのだ。空港で会ったエミリオ氏は荷物満載のマイクロバスで八〇〇キロ走り、チクラヨの空港で待っている。
 バタングランデ村まで六五キロ。この街がこれから我々の滞在するところとなる。人口二〇万人を少々越えるというくらいだそうだ。かの有名な「地球の歩き方」によると「観光すべき所は何もない」らしい。むしろそれくらいの方が良いとも言える。リアルな現地の生活があるというものだ。
 ただ「地球の歩き方」にもシカンと島田教授の話は囲みのコラムで出ていた。
 それにしても、ペルーの国内路線は全く時間が読めない。
 我々が乗ろうとしている飛行機はクスコからリマ経由でチクラヨに向かうものなのだが、現在、クスコから出るのが「何らかの理由」で遅れているのだそうだ。
 「何らかの理由」とは色々だ。
 パイロットが予定の時間にまだ家にいた、乗る筈の要人が、酔っ払っていて遅刻した、などだ。
 おかげで、島田教授と顔を突き合わせたまま、空港のカフェで二時間を過ごすことになった。
 正直言って少々気詰まりだった。
 教授はスペイン語と英語では饒舌だが、日本語はあまり喋りたがらない。昨日の松栄での彼とは別人だ。
 日本語が下手というわけではないのだ。京都弁の混じった古風な日本語を話す。
 だが、つまりは無口なのであろう。スペイン語で饒舌なのが、むしろ、そちらの方が変に思える。会話のネタを探すのに苦労する。
 結局、発掘の話をしようとするのだが、話しかけても内容によっては無視されることもある。会話の試験を受けているようだ。これから先が思いやられる。
 ところが、こういうときに活躍するのが、地中レーダー技師の渡辺氏だ。この喧しいおじさんは、デリカシーというものをほぼ持っていないに等しいから、何があってもめげない。釈迦に説法などと言う言葉も彼には関係ないから、本当に教授にシカンの発掘についての説法をしたりする。私はその強心臓に驚くが、今日のところはそれが功を奏した。渡辺氏がいなかったら、この場はどう持ちこたえればよかったか分からない。
 渡辺氏はいつもニカニカしている。立川談志のような眉毛を持っている。基本的には明るい好人物である。
 義井氏は何だか携帯電話をかけてばかりいた。
 ゲートをくぐり、待合室にはいると、据え付けられたテレビモニタで「シカン発掘」をやっていた。
 ペルー人テレビスタッフが作った観光プロモーションビデオだ。
 なかなか出来がよい。
 画面の中で島田教授が喋っている。モニタは高いところに据え付けてあって、そのモニタの下に本物の教授が座っている。
 やはりここでは有名なのだ。恐らくは英雄と言ってもよいのだと思う。
 まだこの時点では勝手な印象に過ぎないが、ペルーという国は考古学の占める地位がとてつもなく高い。日本ではマイナーな学問というイメージが強いが、ここでは最もメジャーなそれだ。どんな人々も自分の国の過去の歴史について、そして、あらゆるところで発掘される様々な文化の痕跡について、誇りを持って語る。
 これから乗ろうとするアエロペルー(航空会社)のマークもシカンの仮面をモチーフにしたものだ(ただしロゴマークの決定時はインカ帝国遺物としてのマークだった。シカンの謎を解いたのは、その後の島田教授なのだ)。勿論、目が吊り上がっている。
 それ以外にもツミと呼ばれる儀式様のナイフをモチーフにした図案がよく用いられる。ツミの複製はペルーの定番で、土産物屋には必ずある。そのツミナイフの真ん中にも、吊り上がった目を持つシカンの神がいる。
 空港中にポスターがこれでもかと貼ってある。あるものはマチュピチュであるし、クスコであるし、チャンチャン遺跡であるし、シパン遺跡である。
 つまりはこの国の最も重要な産業である観光を促進する学問が考古学なのだ。考古学は一種、国策でもあるのだろう。
 待合い室でもさんざん待たされ、アエロペルー社からサンドイッチが支給された末(これがぱさぱさした実に不味い代物だった)、ようやく飛行機は出た。
 この国で飛行機に乗れるのはお金持ちかエリートばかりだ。
 真っ暗になってチクラヨ入りした。
 エミリオ氏が待っていた。我々は少なからずほっとした。ゲリラにも会わず、無事に着いたのだ。実はこの種の危惧は少々あった。リマとチクラヨの間に、かつて(と言ってもわずか五年ほど前)センデロ・ルミノソの拠点の町があったのだ。センデロ・ルミノソ、「輝ける道」とは、毛沢東主義の左翼ゲリラである。
 ジャイカの日本人を射殺したのも、この連中だ。現在、活動はかなりおさまっている。フジモリ大統領の選挙公約の第一番手は、センデロの撲滅だった。それはそれなりの成果をおさめたのだ。
 ホテルは適当である。ガルサホテルという。ガルサとは白鷺という意味だそうだ。気持ちがいい。高級すぎるのも困る。あの気持ちの良さとこの気持ちの良さは少々違っている。二二歳、二三歳と、地球の歩き方した頃泊まった、タイのインド風ホテルを思い出す。

 95/7/6

 驚いた。バタングランデに至る道の風景は正にブラウン管の中の世界だ。幼い頃に図鑑などでよく見たいわゆるメキシコ的風景が目の前に広がっている。
 私の中のメキシコ的風景とは、砂漠の中に、大きなサボテンが沢山突っ立っていて、そこに通りかかった馬に乗ったソンブレロの貫頭衣の髭男がマラカスを持って「アミーゴ!」と叫ぶ、とこのようなものだ。このようなイメージをステロタイプという。日本人が皆ちょんまげを結って、刀を差して、カメラをぶら下げて、富士山をバックにお辞儀をしているという類のものだ。
 だが、そのステロタイプのメキシコ的風景がそこにあった。さすがにマラカス男はいなかったが。
 このような風景が現実に存在するのだなあ。おまけにメキシコでなくペルーなのに。
 例のガルサホテルのあるチクラヨ市から、クルマで二時間走るとバタングランデ村に出る。間にフェリニャフェ市と、ピティポ、サランダなどの村がある。フェリニャフェ市とピティポ村の間が、そのアミーゴ風景なのだ。それが延々と続く。
 フェリニャフェ市はそれなりの町で、一応電気も通っている。チクラヨの衛星都市(都市は変だが、他の言葉がない)、またはベッドタウンという趣だ。チクラヨからもアスファルトの道を通って行ける。
 だが、この町を通り過ぎると、目の前に広がるのは、ただ、砂漠だ。サボテンだ。アミーゴだ。
 ペルー北部は基本的に乾燥した地域で、熱帯疎林、つまりサバンナ気候にあたるが、地域によって、小さな、または中くらいの砂漠が点在する。その中の一つなのだ。
 砂漠に降りてみた。
 島田教授にとっても四年ぶりにバタングランデ村に訪れる日だ。その彼のジープの走りを撮るべく、カメラのスタンバイをする。この種のカットが後で重宝することになる。
 ある番組の原稿を書くときに、出だしがすっきりしていると、その後が書きやすい。「教授が四年ぶりにバタングランデ村にやって来た」というのは、月並みな出だしではあるが、分かりやすい。テレビは分かりやすさが命だから、結局のところ編集の際にこのような出だしを採用することが多い。撮っておくに如くはない。
 今回カメラをまわすのはこれが初めてで、つまりここでクランクインとなる。
 カメラマンは土肥氏。私より年が二つ上の、スリムな山男だ。大学時代は山岳部で全てを過ごしたと言っていた。確かにニッカボッカ、ヤッケ、そういったモノがよく似合いそうな人物ではある。
 教授のランドクルーザーを猛スピードで追い越し、待ち受ける。目の前を通り過ぎた後、教授に待っていてもらい、砂漠のカットを少々撮った後、追いすがる。
 いつもそうだが、取材相手に待ってもらう行為、こいつも「やらせ」になるのかなあと思ったりもする。
 私は、まあ、そうは思わない立場だ。
 薄い色の雲があるだけの、晴天だ。直射日光が痛い。
 小さな禿げ山が砂に覆われて連なる。サボテンが点在する。
 サボテンの種類は二つあって、ひとつは何という名前かは知らないが、人間が立っているような形のメキシコ的な、いわゆるサボテンだ。例のアミーゴだ。高さが二二メートル以上あるのもある。もう一つはバレーボールくらいの大きさの、玉状のものだ。時折、黄色と赤の花を咲かせているのを見かける。
 所々にそれらのサボテンの死骸がある。
 皮と内部繊維だけを残し、ころころと転がっている。持ち上げてみると非常に軽い。踏みつけるとあっけなく崩れる。
 「死」という概念が実に自然に想起される。
 風景の中で動くものは我々と、そして視界の端でちょろりと動くトカゲだけだ。
 乾燥している。
 砂漠を越えると、緑が多少なりとも増えてくる。同じ種類の樹木が多い。アルガロボという木だそうだ。
 小さな集落が幾つかあり(その集落がサランダだのピティポだのの村だ)、そして最後にバタングランデ村があった。人口およそ千人。真ん中にロータリーがあり、その中に公園のようなものがあり、十字架が掲げてある。
 そこを取り囲むような形で家々が並ぶ。円の形をとる村だ。
 住居は皆、日干し煉瓦(アドベ)を積んで作ったもので、そこに緑やら青やらの少々毒々しい色使いのペンキが塗ってある。住民は様々でアジア人の様な顔をした人や、ヨーロッパ的な顔をした人もいる。皆一様に色が浅黒い。あきれるほど子供が多い。
 村に到着すると、教授は忙しそうに村の色々な人のもとを巡った。村長の代理のような人(村長は留守だった)、農業協同組合の組合長、炊事のお婆さん。皆が皆、教授を本当に歓迎している風で、おおさすが、と思う。勿論、カメラも回し続けた。
 疲れ切ってホテルに帰り、プリンタをパソコンに繋いだが、どうにも調子が悪い。紙がうまい具合に送られない。決してペルーだからというわけではなかろう。何とか期間内は保たして、東京に帰ったらメーカーに文句を言わなくてはならない。

*この日の記述にはやたら「アミーゴ」という言葉が出てくる。
 私は、この言葉を「チョイナ、チョイナ」とか「オーレ」のような、その文化特有のかけ声の一種だと思っていたのだ。
 だが、後で聞いたところによると、アミーゴとは、スペイン語の「友」であるらしい。私が知らなかっただけで、常識だそうだ。
「アミーゴ!」とかけ声のように用いられるのは「友よ!」と語りかけるそれだったのだ。
 私はそのことを知らず、教授に向かって、ことあるごとに「いやー、アミーゴ!ってかんじの風景ですねえ」とか「アミーゴ精神ですねえ」などと言っていた。
 まるきり馬鹿である。
 教授は何だこの男は、と思っていたことだろう。

 95/7/7

 小川様、西野様、穴水様

 昨日は島田教授にくっついて、チクラヨ、バタングランデ周辺の関係者への挨拶廻りとなりました。
 チクラヨからバタングランデに行く道は凄いですね。まさにアミーゴ、カラムーチョです。

*まだ言ってる。

 砂漠の中に低木と類型的なメキシコ的サボテンが並んでいます。こんな風景はブラウン管の中にしか存在しないと思ったら本当にあるのですね。そして、聞いていたとおり砂埃がとんでもない。義井氏の話では、前回よりずっと砂漠化が進んでいるそうです。
 さて、今回の放送のキーワードは「下世話」であると私は勝手に考えておりまして、とにかく人間くさい映像をと心掛け、撮っていこうと考えております。ところがところが、教授はなかなか難物でして、私としましては人間、島田泉をフューチャーしていこうというところなのですが、教授はあの通りのお人柄でして、何かいうと怒られそうで、恐いです。
 教授は今シーズンは顎髭だけを伸ばしています。何だかたけし軍団に似たような人がいたなあという風貌です。

 まだ、ここに着いて二日目。発掘すら始まっていないのにバタングランデから帰ってくると、大変疲れている。さあ書こうとパソコンに向かうと、まずゲームのファイルを開けてしまう。頭を使わないゲームをする。テトリスの類だ。無為な時間である。
 帰ったらすぐに寝て、朝に書くべきか、それともその日のうちに書いていくべきなのか、迷うところだ。
 朝書く場合は頭すっきりで良いことは良いのだが、昨日のことを忘れてしまっていることが難点。更に難点なのが、このファクシミリが東京に着き、シカンスタッフの諸氏が見る頃には次の日になっていることだ。対して今日のように疲労状態で書き続けるのもたまらないのである。現在たまらない。さっきまで例の無為なゲームをやっていた。更に、気を抜くと、いつの間にかベッドに横たわってしまう。
 だが、仕事なのだ。毎日の報告のファクシミリを毎日送り続けることは、私に課された重要な仕事の一つなのである。
 そして、いったん書き始めると、それなりに書き続けてしまう。基本的に「書く」ということが好きなのだ。私は。
 まさかこんなに長いファクシミリが送られるとは思わなかっただろう。小川部長も、西野氏も。

*後で聞いたら、苦笑混じりに「疋田、何だ、あの報告は。肝心なことがちょびっとしか書かれていなくて、どうでもいいことばかり牛の涎のように書いてあるではないか。読む方だって忙しいのだ。いい加減にしろ」とのことであった。
 だが、このファクシミリ日記を書くことこそ、私の唯一の娯楽だったのだ。ペルー滞在が長くなればなるほど、そうなった。だから後になってくるほど一日の描写は長くなる。
 小川部長の苦笑は尤もだが、書く方は読む方の一〇倍の時間をかけているのだ。部長以下、我慢して読んでいただきたい、と私は思っていた。
 そして、謎の美女、穴水女史が返事のファクシミリを毎日送ってくれることが私の励みだった。時々「昨日のは面白かったわよ」などと書いてくれるから、私は調子に乗って書き続けたのだ。時として睡眠時間をかなり削って。

 仕事の中でも私が一番好きなのは、原稿を書くことだ。
 多くの人はテレビのナレーション原稿は、いわゆる「放送作家」という人々が書いているものだと思っているが、実際はかなり違う。勿論そういう仕事のやり方を好むディレクターもいるだろうが、基本的にこうしたドキュメンタリーのナレーション原稿はディレクターが書くものなのだ。そう思っているディレクターは多い。現場で取材した人間が書かなくて誰が書く、てなものである。私は当たり前だと思う。
 さて、金曜日ということもあって、ホテルの近くの何かの建物では何やら祭りのようなことをやっている。大音量で現地のダンスミュージックがかかっている。哀愁のこもった何やらスペイン調の私好みの音楽なのだが、少々音量が大きい。明日になったら例によって渡辺氏が「眠れない」と文句を言いまくるであろう。このオヤジはとにかく何につけて文句ばかり言う。ますます立川談志だ。そして、談志が憎まれにくいのと同様に、彼も憎まれ難いと思う。そういう憎めない性質の人間というのは確かにいるのだ。
 基本的には悪い人ではない。だが、何しろこの年代の(昭和一七年生まれだそうだ)オヤジたちは、自分の世界の範疇に属さないものに対しては非常に口が悪い。
 ペルーに対する文句ばかり言う。やたらと日本では日本ではと言い立てている。ここはペルーなのだ。ペルー人のエミリオ氏がいるというのにはらはらする。
 さらに彼の言うことは、基本的に単純国粋主義的発想のものが多い。私が聞いていても、それはどうかいな、と思うことが多いのに、ここには義井氏がいるのである。義井氏は先に述べたが、元全共闘なのだ。はらはらする。
 この世代のオヤジたちに共通のことだが、物事を単純化して印象だけで語りすぎると思う。私の父親もその口だ。二世のエミリオ氏にも色々な思いがあろう。「エミリオさんは日本人ですから」と言われて、エミリオ氏は果たして嬉しいだろうか。
 さて、本日は割合に楽な日ではあった。最初にこんな余裕の取材をしていて良いのだろうかと不安になる。
 教授の引っ越しの撮影。宿舎の掃除、井戸の掘り返しなど。さらにチクラヨからバタングランデに行く際の砂漠を相米慎二風(つまり長回しということだ)に撮った。
 時間はかかったがそれだけである。やはり少々不安。
 明日は教授の引っ越しの完了(壁塗り、網戸張りなどになるだろう)とバタングランデの土曜市。この二つが基本であるが、この中でノリの良い子供を捕まえよう。
 撮影に際するテーマを絞らなくてはならないと思う。まだ、ロロ神殿発掘の現地に足を踏み入れていないのが、基本的に迷うところだが、周辺については考えなくてはならない。
 今回のテーマはやはり「下世話」にあると思う。
 前回、そしてそれ以前の放送を見て、圧倒的に私が感じたことは、発掘現場の作業員たちの顔や、発掘現場の雰囲気そのものが見えないことだった。
 ブラウン管の中で繰り広げられる、巨大な穴を相手に格闘する島田教授は、一体どんなところにいるのか、どんな人々と作業をしているのか、そのあたりが見えてこないのだ。ここはどこで、どんなところで、人々はどんな生活をしているのか、東京で私はそこが知りたかった。今は目の前にしている。発掘が始まらない現在、私の興味の焦点はそこにある。現在、実際にそれを見ている。面白いと思う。
 いわゆる観光地ではないために、リアルなペルー人たちの生活が見えてくる。
 それは私だけが興味を持つ、という種類のものではないだろう。

1 子供たち
2 盗掘者たち
3 シャーマンたち
4 発掘労働者たち
5 ペルーの情勢、バタングランデの村民た  ちのリアルな生活
6 若い女性、男性
7 動物、植生
8 フジモリ大統領と田舎の政治

 気づいたら又書き足していこう。それぞれの取材ポイントについては今は疲れていて書く気力がない。

 バタングランデの子供たちの中に川崎ヴェルディの洋服を着ているのがいた。その子の父親が日本に出稼ぎに行っていたのだそうだ。その子は一六歳。幼く見える。
 別の一八歳のアメリカン突っ張り風の青年は(六〇年代風)、我々に会うなり「日本に職はないか」と言った。日本の黄金の国ぶりはこんな南米の辺境にも知られているのだ。黄金の国「シカン」よりも現実の富なのだ。
 バタングランデにとってチクラヨは大都会だ。首都リマなどはほとんど外国に近い。ましてや日本。我々は宇宙人である。歩いていると子供たちが寄ってきて、すぐに子供だかりが出来る。我々が片言のスペイン語でも喋ろうものなら大喜びだ。皆可愛らしい。ペルー人は、特に女性は、大きくなってしまうと急速にいかつくなってあまり魅力を感じないが、小中学校の生徒たちは一人残らず可愛らしい。
 その魅力の一番の原因は素直さだ。そういえば宮崎の日南市(私は住んでいたことがある)で幼稚園の取材をした時も似たような感想を持った。
 同じ時期、私は幼稚園の取材ばかりやっており、勿論、都内の幼稚園も取材していた。ひねた都会の園児に較べて日本の果ての園児は素直だった。可愛らしかった。そして年齢のわりに幼い。それはバタングランデにも言える。
 ここの地方は幼すぎるくらいだ。少女に「四つかな」と尋ねたら「八歳」と答えた。先のヴェルディの服を着た少年アンディは、せいぜい一二歳くらいにしか見えなかった。
 この地方の場合は食べ物の問題も少なからずあるに違いない。
 少年たちはサーヴィス精神旺盛で、我々を笑わせるためにオチンチンを出すことも厭わない。皆よく笑う。
 だが、私の腕時計を指さして「くれないか」と言う年齢になると、その無邪気な素直な精神も変質してくるのだろう。一方で当たり前のことだとも思うが、残念な気持ちも勿論ある。彼らの親と私には、収入に三〇倍くらいの差があるし、日本とペルーのバックグラウンドも違いすぎる。何が彼らを変質させるといって、日欧米の先進各国と自らとの如何ともしがたい違いほどその要因となるものはないだろう。
 南米のこんな田舎村にもテレビ(バタンの裕福な家庭は持っている)などを通じて日本の情報は伝わってくる(多分に誇張されてはいるが)。アメリカ合衆国の怒涛のような豊かさの情報は溢れるばかりだ。
 それがどんな意味を持っているのかを知るごとに、少年たちは絶望的になり、バタングランデ村に生まれたことを呪うようになるのかも知れない。
 少々暗い気分になる。
 一二時になったというのに、窓の外の哀愁のダンスミュージックはまだまだ大音量だ。
 ここで生まれ、ここで育ったら私はどうだっただろう。

 95/7/8

 島田教授の引っ越しが続く。井戸から水が出てきた。茶色く濁った水である。土や汚れを沈殿させて、一回沸かせば、何とかしよう出来るかも知れない。
 中で掘っているのはエクトル氏。発掘労働者のベテランである。物静かな、東洋系の中でも特に日本人のような顔をした人物だ。この人の後を追って、家までついていった。カメラは背後から回っている。掘ったて小屋である。たくさんの動物を飼っていた。羊、馬、七面鳥、鶏、猫、犬、九官鳥、山羊、それぞれに子供がたくさんいる。可愛らしい。娘が一人と甥っ子が一人いた。それぞれ一一歳と一四歳。例によって年齢よりもかなり幼く見える。これ又可愛らしい。
 さて、教授は宿舎の中を忙しく動きまわり、時々、外に出かけては帰ってくる。引っ越しの雑感(作業の雰囲気などを色々なアングルでカメラに収めたもの)は撮ってしまったし、我々、テレビのスタッフは少々暇になってしまった。
 バタン村中心のロータリーには多くの暇な子供や若者たちが集まってくる。
 カメラマンの土肥氏はバタングランデ地元の娘たち(二〇歳前後)とバレーボールをしていた。VEの内田氏は、日本に行きたい一九歳の娘に昼食に誘われていた。ここで日本人でいることはある種、楽しいことなのかも知れぬ。
 私はといえば、ガキどもばかりが周りに集まってきた。私としては少々もの哀しい。
 土肥カメラマンはナイスガイなスポーツマンで、当然バレーもうまい。それは万国共通に大きな価値を持つものだ。こんなバタングランデの娘っ子にもそれは一目で識別されるらしい。
 サウンドマン内田氏はまんざらでもないという風情である。彼は背こそ低いが、少林寺拳法の達人である。
 エミリオ氏は少々申し訳なさそうにしている。テレビクルーが現地に何となくいる、という風情になることを、彼は自分の責任と思うようなのだ。
 氏はかつて、あの有名な「川口浩探検隊」もコーディネートしてきた。
 冗談話の中で、彼はその体験を面白おかしく話してくれる。
「ヒキータさーん、カワグーチ探検隊はこうよ。なーんでもない道だって、カメラを斜めにして、崖にしちゃうのよ。みんな普通の坂道を四つん這いになって歩くのよ。エミリオ(自分のことをこう言う)も写るから、カワグーチ隊長に『エミリオ、もっと苦しそうに這いつくばれ』なんて言われたものよ」
 我々はゲラゲラ笑う。エミリオ氏の喋りの巧みさもあるのだ。
 そういう体験を繰り返してきたからこそ、彼は通常の「日本のテレビ」欲しがるものをよく知っている。そして日本のテレビがこういった一見無為な時間を嫌うことも。
 だから何だか彼は申し訳なさそうなのだ。
 私も通常の「一週間後の放送に間に合わなければ」というような中での話だったら、目の色が変わっていたかも知れぬ。
 だが、今回の取材は少々毛色が異なっているのだ。何しろ放送の目途すら立っていない。しかも放送はあくまで発掘如何によるのだ。
 まあ、焦ってもしょうがありませんよ。
 内心で焦るときは焦るぜ、と思いながらも私もエミリオ氏に言う。
 発掘はまだ始まらない。
 島田教授にもいろいろと準備があるのだろう。

 95/7/9
 
 朝のバタングランデ村ロングショット(高い位置などから撮った広い映像)を撮るために、五時にここを出発した。
 チクラヨからバタングランデ村への道を離れて、サバンナの中の道なき道を徒歩で一時間くらい歩く。その歩いた先に小山があって、そこに登るのだ。
 村全体の絵が撮れるのはそこしかないのだそうだ。昨日、バタングランデ村の農業組合長がそう言っていた。
 小山とは言っても、撮影機材を抱えて登るのだから、結構骨が折れる。これも当然、道なき小山だ。サバンナの木々が枝を伸ばす中をかき分けて行くから、機材に引っかかったりで、なかなか進まない。
 撮影機材とはカメラ、三脚、それにビデオテープやバッテリーなどを入れたグリーンボックスと呼ばれるものの三つ。今回の撮影は単に音のない昼間の絵を撮るだけだから、これですむ。あとはクルマかホテルの中に置いてきた。カメラが一番軽くて、それでも八キロ。グリーンボックスは一五キロ前後。
 これが、インタビュー有りで、更に夜だったりすると、機材の重さは倍増となる。照明器具と音声、マイクやミキサーなどがつくからだ。
 国内取材の時は我々取材クルーは、大抵、ディレクターとカメラマン、サウンドマン、照明の四人で編成される。
 このうち、ディレクターを除く三人が技術スタッフで、カメラマンは勿論、一番偉くて威張っている。その次がサウンドマン、一番若いのが照明をやる。大抵の場合。
 これが、ドラマや歌番組などのスタジオ撮りになると、照明スタッフは、一躍、偉い人になってしまうので、状況は変わってくる。これはあくまでニュースやドキュメンタリー撮影の場合だ。
 この照明さんが大変なのだ。
 座りのインタビューに照明機材を立てたり、夕暮れを過ぎたときや室内撮影の時に、ライトを持って被写体を追い回すのが仕事なのだが、それ以外の時は、彼らの役目は「荷物持ち」という側面が非常に色濃い。
 新幹線の東京駅や新大阪駅でよく見ていると、ときどきテレビ局のカメラクルーの移動場面に出くわすことがあるが、その時、とんでもない量の荷物を両肩にぶら下げて、一番後ろから歩いてくるのが、照明さんだ。バッテリーが入っている鞄が一番重く、一五キロ以上ある。それらを四個から五個ぶら下げなくてはならない。総重量は四〇キロ前後となる。
 放送、映像の専門学校を出たてで制作会社に入ると、まず担当するのがこの照明だ。だから、照明さんは皆、若い。これを四、五年やると、サウンドマンに昇格し、更にそれを四、五年こなして、ようやくカメラを担ぐことが出来るのだ。
 だから、必然的に、カメラクルーは体育会系の精神構造を持つようになる。
 TBSの場合、社会部や、外信部、政治部など記者だけがいる部、ディレクターやADがいるそれぞれの番組部門の他に、映像部というところがある。カメラクルーのセクションである。
 比較的リベラルな雰囲気を持つ報道局の中で、そのセクションだけは上下関係が厳しい。余計なことだが、宴会も派手だ。その末席に座るのが、照明さんたちとなる。
 さて、その照明さんなのだが、海外出張には彼らはやって来ない。海外の方が、移動その他、大変なことが多いから人員増強をする方が普通のようなのだが、実体は限りなく逆だ。海外は一人派遣するにも数十万、百数十万単位のお金が出て行くから、よほどのことがない限りフル人員では行けないのである。
 よって、海外では荷物運びも、ディレクターの重要な任務となってくる。小山では私は三脚を担当した。持ち慣れないと、三脚はでかいし、重い。
 おまけに訳の分からないことに、ヴィンテンなどの外国製三脚(殆どのテレビ局はこのメーカーのものを使っている。ドイツの会社)は最も値段の高い機材の一つで、扱いには慎重を要する。何しろ三脚が一つ一〇〇万円を越すのだ。
 ちなみにカメラは、ファインダーやレンズをあわせると、七〇〇万円前後となる。放送機材は高い。 
 小山の上は、遺跡の巣窟であった。石を積み上げた砦様のものが、沢山築かれていた。こんなところにいったい何のため作られたのかは分からないが、インカ帝国時代のものだそうだ。
 霧が晴れるのを一時間半ほど待って、撮った。山が砂漠になり、砂漠が草原になり、その中にバタングランデの村が出現する。非常に美しい。
 その後、バタングランデ村の裏山(これは低い)に登ってここの名称の由来である、石臼を撮った。夥しい量の石臼が無造作に落ちている。「バタングランデ」という言葉の意味は「大きな石臼」である。
 その石臼の一つ一つが一〇〇〇年以上前のものだ。砂埃にまみれ、雨に洗われながら存在してきたのだ。
 この石臼の謎を解いたのも、島田教授だった。
 石臼は、直径八〇センチ前後の比較的大きな石の表面を、平らにして、その真ん中を薄い擂り鉢状にしたものだ。擂り鉢状といっても深いものではない。せいぜい雨水が若干溜まるかな、という程度だ。それに丸い石がペアになっている。
 シカン以降のバタングランデの住民たちは、これらの古代の石臼のことを元々は何であったのかを知ることもなく、裏山から拾ってきて麦や芋などを擦り潰すのに使っていた。だが、あまり使い勝手の良いものではない。本来の使い方と違うのだろうと思われた。
 そして、この石臼がバタン村の裏山に集中して放置されているのは何故か。
 その答えが、シカン文化の金属製品だった。
 シカンの黄金と呼ばれているものは、実は黄金だけで出来ているのではないことは分かっていた。黄金の輝きを持つものは一種の合金で、金の含有率はその彫刻と同様、様々だった。より高貴なもの、つまり彫刻が精緻なものは、より金の含有率が高い。
 その他の成分は多くの場合、銀と銅。この三種類の金属を使った合金はトゥンバガと呼ばれる。
 このトゥンバガを作ったのが、この石臼だったのだ。バタングランデでは、金は採れない(金はアマゾン地方から持ってこられたものと推測されている)。が、かつて銅を大量に産出した。
 石臼はその銅の鉱石を砕くために使われたのだ。バタンの裏山は恐らく、その銅の精錬場があったところだったのだろう。
 シカンの滅亡とともに、その精錬場そのものは無くなってしまったが、重い石臼だけはそこに放置されたのだ。
 島田教授の説だ。

 午後二時からその島田教授のロングインタビュー。今回、西の墓を掘るのは何故かを中心に色々な話を聞いた。
 この種のインタビューを撮る場合、そのVTRの使いどころは、特集の初めの部分になる。基本的なことの説明はVTRの中で、教授の口からやって貰った方が効果的だ。
 だが、その為に、分かり切ったことも質問せねばならない。
「何故西の墓を掘るのですか」など、その最たるものだ。教授も何を今更、何言ってるの、という気持ちだろうが、聞く方にしてもそれはそうだ。いちいち「そんなことは分かってるんですけどね」とクレジットを入れながら聞くのも、馬鹿げた話だし、そうなると、おざなりの返事しかかえってこないことになる。
「お前、それくらいのことは勉強してこいよ」と思われてるだろうなあ、と思いながら、それでもカメラは回る。
 よく、テレビの記者は勉強してこなくて、などという識者の話が雑誌などに載ったりするが、そういう事情もあるのだ。すべてがそうだとは言わないけれど。
 インタビューは引っ越しの雑音ががたがたと入る中で行われた。せわしなかった。
 その後、教授はバタン村の近くのサランダ村へ出かけていき、労働者たちを集めて訓示を行った。
 発掘の決起集会である。
 今回の発掘に関わる作業員たちの殆どは、東の発掘、それ以前にも関わった発掘のプロだ。マイクを向けると、皆が一様に「教授との仕事を誇りに思っている」と言う。
 明日からようやく本格的発掘である。
 ペルーに入ってから、今日でちょうど一週間だ。

 95/7/10

 VTRでは何度も見ていたが、私にとって現実に見るのは初めてだ。
 その初対面のロロ神殿は、昨日、発掘作業員たちの集会を行ったサランダ村の更に奥にあった。バタングランデ村近くのこの地域には、多くの神殿がある。ただし神殿とは言っても、近づいてみると、単なる土の山だ。高さがおよそ二〇メートル程度だろうか、アルガロボの木が茂る周りの風景の中にここだけ剥きだしの土が聳えている。
 もとは日干し煉瓦(アドベ)を積み重ねた整然としたものだったのだろう。だが、造られてから一〇〇〇年を過ぎ、雨に降られ、アドベが溶けてしまったのだ。よくよく見ると、山の壁に、かつて煉瓦を積み重ねていたことを示す横縞が見える。
 かつて神殿、今、土の山の上には、山羊の親子が登っていた。山羊は、地元の住民が飼っているものなのだが、この周辺を自由に歩き回っている。餌もアルガロボの葉を勝手に食べている。よく見ると耳が片一方無い。子供の時にはさみで切ってしまうのだそうだ。この片耳で、山羊が誰かの所有物であることが分かる。
 今日から本格的な掘削に入るはずだったのだが、集まった労働者たちが樹木を切り払って、土をならすだけに終わった。おまけに島田教授は道具が足りないとのことで、チクラヨに出かけていってしまった。
 渡辺氏の地中レーダー探査も始まるには始まったが、まだ前回の補助段階だそうだ。
 今日は早めに引き上げた。
 チクラヨに帰って来ても、まだ日があったので、チクラヨ中心部の市場などに行った。
 物は豊富である。しかも安い。妙な電化製品がたくさんおいてある。スニーのラジカセやマックスシタのオーディオテープなどである。
 ラジカセを買った。ステレオ、グラフィックイコライザー付きで一八〇〇円である。少々異常な値段だ。
 今日は眠かった。疲れた。

 95/7/11

 もう一一日になってしまった。時のたつのが早い。
 今朝、教授は又しても物が足りないと、チクラヨに行ってしまった。よってロロ神殿の現場は学生と作業員たちだけである。一日、だれた日をおくってしまった。
 教授がいないと作業員たちが働かない。作業能率がどう少なく見積もっても七〇パーセントは落ちる。おまけに学生たちも日陰で腰掛けているばかりだ。仕様がないので我々も日陰で腰掛けていた。カメラはちっともまわらない。本日は初めて本格的な発掘のシャベルが入る筈の日だったのである。ところが、今日も一日が整地作業だけで終わってしまった。
 困るのである。限られた日数の中で、何とかスペクタクル巨編を撮りたい我々としては。
 今日撮った映像と言えば、作業員がのろのろと砂山(前回の発掘のあとに残されたもの)を壊している姿と学生たちがこれ又のろのろと発掘するべき場所にロープを張っただけであった。あと、作業後の川での水浴びシーンも撮った。ちっともスペクタクルではない。
 この地の学校は現在、先生たちのストライキ中でまともに授業をやっていない。
 発掘とは関係がないが、現地の生活その他を撮りたい私としては、ストライキの合間を縫って(変だな)金曜日に地元の小学校と中学校を撮影することにしてもらった。例の「下世話」部分である。おまけに島田教授に聞かせる「シカンの歌」付きである。何ともはや健全なドキュメンタリーである。予定調和である。国営放送のようだ。だが、そういうものを撮っていかないことには枠が埋まらない。
 今朝、東京の西野氏と電話で話したら、他のものを撮りに、発掘現場を離れてはいけないとの指令であった。それは勿論そうであるのだが、それでは新味が出ない。すべてやり尽くした後に三週間で発掘のすべてを撮り、かつ疋田カラーを出せとはなかなか難しい話ではあるのだ。
 ようやく島田教授とまともに会話が出来るようになってきた。島田教授も小さな冗談を言うようになった。
 さてさて、構成について考えざるを得ない。
 基本的には「島田教授、二度目の発掘に挑む!東側の墓の謎を解くカギはすべて西側の巨大な棺にあった!」だと思うのだが、そこに下世話を挟み込む。下世話とは何か、あんまり無いのだなあ、これが。
 いつものパターンで考えるなら、時系列で発掘作業を追う中にバタングランデの様子、ペルーの様子を挟み込むというところなのだろうが、問題はその挟み込む内容である。
 現在までに考えていることは以下の通り。

1 無邪気!バタングランデの子供たち
 基本的に作業員の子供が主人公になるのだと思う。エクトル氏の一一歳の娘などは可愛らしくて適当かも知れぬ。学校での一日、家に帰ってきてから、など一日を密着するのと同時に母親の一日、親戚家族、近所の人々、学校の友達などの生態が見えてくれば良いと思う。勿論、作業員エクトル氏も主人公の一人となる。
 近所の日本帰りのお兄ちゃん(佐川急便で働いて今ではトラック三台を持ち悠々自適だ。二三歳)、どうしても日本で働きたいお姉ちゃん(一八歳)、猛烈なフジモリびいきの美術の先生などもバイプレーヤーとなろう。
2 秘境!大トカゲを常食とする村
 チクラヨから車で二時間、その村はある。砂漠を走りまくるトカゲを捕まえる手段、それを料理する様子、などグロい映像に理屈をかぶせていく。曰くこの地域に伝わる伝説、シャーマンの儀式、その際に使用する麻薬、その他。
「その他」と書けば何やら色々な取材が出来てしまうようだ。実際はさっぱり分からない。かいもく見当がつかない。
 しかしさらにトカゲにかこつけて付近の動物たちも描けるぞ。山羊もいるぞ、牛も馬も犬も猫も鶏も七面鳥もいるぞ。夕方になると道の脇にたくさんの足を縛られた山羊たちが並ぶ。みんなトラックに乗せられて、次の日には肉になってしまうのだ。悲哀。さらにさらにアルガロボなどの植物についてもどうだ。教育テレビにしてしまおう。
 だが、発掘とは全く関係がないなあ。
3 アミーゴ!暗躍する盗掘者たち
 チャンカイ、ナスカ地方に暗躍する謎の盗掘者シンジケートとそれを取り締まろうとするインターポール。だまし合いの駆け引きの中で、火花を散らす頭脳戦。背後にちらつくフリーメーソンの影。すべてを知る男の名は人呼んで「片腕のスパルタカス」。総額五〇〇〇億円の金の行方はどこに。
 そんなものがどこで撮れるのか。
4 首都!リマ
 なああんにも調べてないのでさっぱり分からないが、何かありそうだなあ。発展途上国の首都は何であれ、パワーがあって好きだ。フジモリ大統領がらみで何か無理かな。
 さらにリマでなくともチクラヨでも良い。それなりの都市だ。私は好きだ。ここに住んだっていい。
 
 だが、発掘が進まないことにはこれらのものも宙に浮いてしまう。
 とにかく発掘の行方はどこに、なのだ。

 バタングランデの良さは一つには乾燥した田舎の良さだ。日本で「田舎は良いなあ」などと言ってみた後で「でもやっぱり、、、」と思うきっかけとなるのは多くの場合臭いである。動物は良いなあ、といってもその障害となるのもやはり臭いだ。
 ここにはそれがない。乾燥しているから糞に細菌が繁殖しないのである。牛糞がすぐに乾いてしまう。土と同じだ。これを燃料にするのも至極納得できる。何しろ不潔感が非常に希薄なのだ。
 牛や山羊や馬は勝手に水を飲みに行き、勝手に草を食べ、手が掛からない。糞も勝手なところで垂れて、その後始末がいらない。臭くもない。
 人と家畜が最も少ない労力で共存できる。サトウキビもトウモロコシも種をまけば勝手に育つ。
 昼間は暑いが、夜は涼しい。昼間の暑さにしたって乾燥しているから不快指数はそれほど高くない。日陰にはいれば良い風が吹いてくる。冷房も暖房もいらない。
 ひょっとしてここは地上の楽園ではないのか。
 義井氏は「そうかもなあ」と笑っていた。夏は違うよ、とも言った。
 そうなのだ。現在ここは真冬なのである。

 95/7/12

小川様 西野様 穴水様

 エミリオ氏の話によると私はバタングランデ村で「ハポネス、ジャック・ニコルソン」と呼ばれているのだそうです。そういえばペルーには髪の薄い人間が極度に少ないですね。私はチクラヨに来てからと言うもの鏡以外にそのような人間を見たことがありません。私は実はこの地ではとんでもなく変わった人間に見られているのかも知れません。
 しかし、ジャック・ニコルソンはいいな。私の最高に好きな俳優の一人です。少々気に入りました。ただニコルソンは肌が白い。今や私は真っ黒けです。
 ファクシミリは届いています。ご安心ください。
 ですが小川さんのファクシミリは二枚。「どうだ?」というのと「日記拝見」というやつだけです。肝心の「ヒント集」が届いておりません。是非、再送をお願いします。
 東京も暑いようですね。こちらも暑いですが、過ごし易さはこちらの方が上でしょう。何しろチクラヨに来てからというもの、エアコンの風にあたったことがないし、その必要も感じません。東京の猛暑を思うと「オウッ!テリブル!」です。
 
 やっと発掘に入った。北側の墓である。ラファエル氏が責任者となる。学生たちと教授が砂をなでるようにかき集めて、いちいち篩にかけて、土器のかけらと土とを選り分けた。今日一日の出来高は地表より一五センチである。
 島田教授は「何かが出てくるのは二メートル掘ったところからでしょう」と、こともなく言い放った。

*これは後から考えると大嘘になった。ロロ神殿西の墓はそんな生やさしいものではなかったのだ。

 私が「それはいつになりますか」と問うと「一週間程度ですね」との仰せだった。
 それならばまだ間に合う、と少々嬉しくなった。
 私はここにとりあえず一ヶ月いることが出来る。そして、その間に何らかの、金もしくはそれに準ずる価値あるものが出てきたときのみ、ここに居座ることを許されるのだ。
 何故ならば、番組を作るにあたって、この一ヶ月が編成局を納得させる猶予期間となるからだ。
 編成局とはテレビ局の司令塔とも言えるセクションで、文字どおり番組の編成をする。番組の予算枠を決め、キャスティングを調整し、裏番組を考え、視聴率に一喜一憂する、つまりはテレビ局はこのセクションを中心に動いているという部署だ。
 その編成からゴーが出れば、予算がつく。何もなければそれは出ない。この一ヶ月は我々テレビスタッフにとっては重要なのだ。
 編成としては「黄金ザクザク」のイメージが無ければ、視聴率はとれない、と信じ込んでいるから、そういった報告が出来ない限り、番組は無いのである。
 西側の墓は現在、樹木の伐採に入っている。
 島田教授自ら、切った木を運ぶ中に加わっている。
 島田教授は本当に学者らしくて何かこの頃は潔い気持ちよさを感じる。作業員に対しての言葉遣いも非常に丁寧なのだそうだ。エミリオ氏の話。
 VE内田氏が風邪用のマスクをしている(本当は土埃よけ)のにもいち早く気を使う。何だか優しい。偏屈な学者バカなのかも知れぬというかすかな不安を感じていたが、どうやらそれは間違いだったようだ。
 明日からの予定は次のようになる。
 まず明日は五時半にここを出て、エクトル氏の家に行く。エクトル氏の一日を撮るのだ。
 主人公はこの間会った小学生の娘である。サランダ村にある学校は非常に近い。さらにロロ神殿も非常に近い。都合がいい。何が撮れるかは分からない。運試しである。ここの娘は非常に可愛らしい。
 シカンの遺跡からは少女と言えるような若い女性の生け贄が多数発掘されるが、この子がもしもシカンの時代に生まれていたらひょっとして神殿に埋められていたかも知れないのだ。そのあたりのことを原稿に入れていけば(勿論歴史的考察の下に)、深みがちょっと出るかも知れない。
 明後日は発掘の続きとバタングランデの中学校を撮る。というよりここの音楽の先生を撮る。例の「シカンの歌」の作曲者だ。その後、島田教授に歌を聴かせる演奏会となる。伝統的楽器を使って七人編成のバンドだそうだ。その後、再び教授のロングインタビュー。今度は夜ヴァージョンだ。
 その次の日の昼間はまだ予定が立ってない。夜はバタングランデ村のダンスパーティである。島田教授が踊ればよいが。
 エミリオ氏の話によると興が乗れば顔を出すのだそうだ。同日、村の婆さんから地元の昔話を聞くつもり。
 その翌日がトカゲ村である。アイキャッチの一つになればと思っての取材だが、何だかよく分からない。この日は日曜日なので発掘作業はない。安心して他の村に行ける唯一の日だ。トカゲ村などでつぶしても良いのかとも思うが、日帰りできる場所はここしかないので仕方がない。
 ここまで。最後の一週間はどう予定を立てて良いものやらよく分からない。
 とにかく何かが発掘できれば流れは変わると思う。
 夕食にはリマからやってきた下野氏が同席した。下野氏は日本電波ニュース社のリマ支局長、兼駐在記者、兼駐在カメラマンだ。氏にはリマで一度会っている。私よりも二つ年上の、おとなしい感じの人である。他人に凄く気を使う。だが、その経歴を聞けば、カンボジアだのヴェトナムだのの危ない国の駐在カメラマンばかりやっていたという。見かけによらずタフなのだ。
 リマの外国人ジャーナリストの間で、彼は「ランボー」と呼ばれている。何故ならば、同社のリマ駐在員は一人きりだから、テレビカメラ以外に三脚も音声機材も一人で運ぶからだ。三脚を肩に載せて歩く姿が、バズーカ砲を抱えて歩くシルベスター・スタローンに準えられているのだ。
 日本電波ニュース社のリマ支局は彼の進言で開局した。だから、彼はその責任をとって、たった一人でここにいるのだ。尤も、支局とは言っても、彼の住居であるマンションにファクシミリと若干のテレビ撮影機材があるだけだ。
 彼にとっては、今のこの状況が、ここ数年来の念願だったそうだ。
「カンボジアも面白かったけど、やっぱり南米が最高ですよ。僕は大学時代、これでもスペイン語を専攻していたし、大学時代に南米を一年くらい放浪したこともありますしね」
 彼は言う。
「会社に入ったときから、南米支局に行きたかったんですよ。でも、入ってみたら、南米には支局は無いって言うじゃないですか。だから、作って貰ったんです。支局は別にリマじゃなくても、コスタリカでもエルサルバドルでもよかったんです。でも、日本人は、エルサルバドルなんて国、名前も知らない人が多いじゃないですか。だから、絶対に通らないと思ってね。
 その点、ペルーは日系人が大統領になったでしょ。これはいけるって。
 でも、存続が大変なんですよ。
 僕らの会社は、局の人に(在京キー局にということ)、その地のネタを映像ごと買い上げて貰って収入を得るって会社でしょ、だから、この一年、ホント大変。
 今年に入ってから、震災とオウムで、海外のネタ、特に南米なんて絶対放送してくれないですから。特にオウムはダメージ大きくて。今でもニュース番組、全部オウムでしょ」
 なるほど。麻原彰晃は、こんな南米の街にも影響を及ぼしていたのだ。私もそれから逃れてここに来たのだけれど。
「これ以上、リマ支局の赤字が続くようであれば(実際は赤字どころではなく、収入ゼロがもう数カ月続いているのだそうだ)、リマ支局閉鎖って言われてるんで、困ってるんですよ。本当にもう、早くオウム騒動が終わって欲しいですよね」

*後に、我々シカンプロジェクトは、この下野リマ支局長に、リマ支局存続のためのお手伝いを、ほんの少しだけすることになる。が、このときはまだ、現地での日本人同士の会話、に過ぎない。

 さて、その夕食なのであるが、おじさん三人の話がことごとくかみ合わない。
 島田教授の側に立って学術的慎重発言をする義井氏と、テレビ的面白ものを撮りましょうよ、とするエミリオ氏と、何だか訳の分からない渡辺氏が三竦みになっている。
 一昨日から義井氏はリマに行っていて今晩帰ってきた。だからその間、我々取材クルーはエミリオ氏と話していることが多かったのだが、エミリオ氏が「ヨシーイさんといると、ヨシーイさん恐いでしょ、私、コーディネートの仕事、やりにくいね」ともらしたことがあった。エミリオ氏の立場になると少々納得できる気もする。
 渡辺氏は相変わらず訳が分からない。エミリオ氏にあの果物が食べたいとか、その手のことばかり言っている。エミリオ氏は少々閉口しているようだ。だが、我々も渡辺氏のそういった要望に便乗したりしているから、批判できる筋合いではなかったりするのだが。
 渡辺氏については、何だか、氏の知り合いの大学の教授がシカンの見学をしたがっているようで、シカンとは別件でそのコーディネート役を頼まれているのだそうだ。
 教授夫人と二人の旅行だという。これは渡辺氏ならずともたまらない。スペイン語のガイドブックを見て「チクラヨの最高級のホテル、ガルザホテルに泊まりたい。プール付きの豪勢なホテルだそうじゃないか」などと計画を立てているという。ガルザホテルとはここである。ファクシミリも満足に届かないここだ。確かにプールはあるが、バスタブはない。お湯も出たり出なかったりする。部屋の壁は剥げている。
 シカン遺跡見学には日帰りのコースを組んでいるのだそうだ。奥方付きである。全然分かっていない。渡辺氏はこの教授のために帰りの予定を四回組み直した。今晩、教授からファクシミリが届いて四回目の組み直しをせざるを得なくなったのである。
 たまらないのは義井氏とエミリオ氏の両氏だ。ヴァリグ航空(日本ペルー間の唯一の直行便を持つブラジルの会社)の方面から文句の電話も来る。
 このことが遠因となって今晩、両氏の間にちょっとした口論が起こった。結局エミリオ氏が引いてしまう。私は横で見ているだけである。
 構成を考えなくてはならないのだが、まだ要素が足りぬ。小川さんの言うとおり、島田教授の本を読み返そうと思う。
 だが、小川部長には誤解があるようだが、我々は昼寝をしているわけではないのではある。

*だけど、こんな長いファクシミリを書いてる暇があるじゃないか、と小川部長は言ったそうだ。
 あとで穴水女史に聞いた。

 95/7/13

小川様、西野様、穴水様

 チクラヨの町はFM放送が充実していて、いろいろの局があるのですが、洋楽(ペルーの曲も洋楽といえば洋楽だ)中心の音楽とニュースだけという実に都合の良い局がありまして、ホテルに帰るとそれを聞きつつパソコンに向かうわけです。ニュースの内容は、スペイン語なので、さっぱり分からないのですが「ショーコーアサハーラ」だけは耳に飛び込んできます。
 オウム事件はその後、何か進展はありましたか。スペースJの今週の視聴率はいかがだったでしょうか。穴水女史の美貌は相変わらずでしょうか。

 エクトル氏の娘は実に実に日本的である。まず、顔立ちが日本人している。美人になると私は思う。
 さらに、そのおとなしさと、一抹のシニカルさがますます日本人だ。学校取材中、休み時間に生徒たちに色々聞いても、彼女は取材クルーをとりまくガキどもの中に加わらない。マイクを向けると質問の答えだけを的確に答える。看護婦になりたいのだそうだ。子供らしい元気さはあまり無い。「文学少女」然としている。
 つまり、取材対象の子供としてはあまり面白い存在ではないのだ。困った。
 でも、私は彼女のような女の子は好きだから、無理矢理主人公の一人にでっち上げてしまおう。
 小学校の子供たちの中に、よく見ると赤と白の肩章をしている子と、金色の肩章をしている子がいる。聞けば「スクールポリス」なのだそうだ。彼らは朝礼の時間にも列の中に加わらず、他の子供を見回っていた。何やら少年映画「狙われた学園」のようだ。しかし、彼らは生徒同士の選挙で選ばれるというから、まあ、他人の国には他人の国のやり方があるということだ。
 発掘は徐々に進んできている。北側の墓は五〇センチの深さになった。西側の墓も二〇センチくらい掘った。勿論まだまだ何も出やしないが、形だけは「遺跡発掘」という様相を呈してきた。今日から井戸掘りエクトル氏も発掘に加わっている。
 夜になるとバタングランデのお爺さんのバースデイパーティがあった。島田教授も参加した。ペルー風ダンスミュージックをフルボリュームでかけ、中庭でお爺さんとお婆さんたちが踊る。ビールとトウモロコシ酒で、ほとんどの人がべろべろになっていた。教授もそれなりに酔っ払っているようで、口調がなめらかだった。教授の好物はなぜか日清の「チキンラーメン」だそうだ。一年に一回は食べないと寂しいのだそうだ。土肥カメラマンが、明日必ず先生の宿舎に持っていくと約束していた。
 土肥氏は何だか大量のインスタントラーメンの類をこの地に持ち込んできているのである。山男である彼は、どこに行くにも食糧の準備をするのだ。そういえば、一昨日だかにチクラヨの市場に行ったときには、巨大なガスコンロを買っていた。
「これで大丈夫」と彼は言った。何が大丈夫なんだか知らないけれど。
 明日の予定は、引き続きの発掘と、例のシカンの歌である。今日と何だか似ている。
 これから撮るべきものを挙げよう。以下順不同。

バタングランデ地方の「神話」「伝説」を知るロベルト氏インタビュー
文化庁長官インタビュー
夜、神秘的にロロ神殿、教授宿舎、バタングランデ村、エクトル家
サトウキビの刈り入れ
バタングランデ村ダンスパーティ
小学校校長インタビュー
ロロ神殿の側に住む婆さんのインタビュー
トカゲ村(行ってみないと分からない)
道、足を縛られた路上の山羊たち、道を進んでロロ神殿が見える(恐らく既撮)ドリー各種
電線、バタングランデ、サランダ
動物各種、虫なども
下から見たアルガロボ
プラットホームから露出するアドベ煉瓦
バタングランデ広場雑感
水のない川
チクラヨ市場たくさんの品物、ペルーの果物、呪術者用の麻薬など

 気づいたら書き足していこう。

*こういう記述は、後で見返すと何だかよく分からないことが多い。特に「下から見たアルガロボ」などというのはさっぱりだ。アルガロボとは現地に沢山生えている木だけれど、下から見上げて何だというのだろう。多分何らかの意図があって、何らかのナレーションを被せようとしたのだろうが、よく分からない。
 多分、このカットは翌日くらいに撮ったのだろう。こういうのは撮りやすいから。だが、放送では使わなかった。
 こういうカットも含め、TBSの倉庫には放送に使わなかった莫大な素材が、永遠に眠り続けることになるのだ。

 95/7/14

小川様、西野様、穴水様

 今日は東京は休みですから、このファクシミリを読む人は誰もいないかも知れませんが、月曜日に読んで下さい。最近私はこれを書くことが生き甲斐になっています。
 西野さん、取材メモをありがとうございました。大変参考になります。パート2も期待しています。

 嬉しいことに、今日からようやく本格的な「発掘記」らしきものが書ける。西側の墓は一メートルほど掘り進み、きっちりとまっすぐに垂直に作られた穴の壁には、多数の地層が覗き始めた。
 上部三〇センチほどは洪水による堆積層、その下にあるのが時代ごとの地層だ。この地層が幅一〇メートルほどの穴の真ん中あたりで陥没している痕が見える。地層の陥没の原因は、その下に空洞があるために長い間にそこが沈んでいった可能性が大だという。その下二メートルほど掘り進むのはまだ先の話になるであろうが、良い兆候である。
 さらに、穴の神殿よりの方角には、何やら壁らしきものが出てきた。素人目には何が壁なのかさっぱり分からないが、壁なんだそうである。島田教授がそう言う前に、すでに作業員は「壁あり」に気がついていて、もうその部分にはシャベルは使っていない。発掘用のヘラのようなものに切り替えていた。凄いものである。作業員というのは間違いで、彼らは立派な調査団員だ。
「調査は順調すぎるほど順調に進んでいます」とは島田教授の弁である。

*ちっともそうではない、ということは後になって分かってきたことだ。

 渡辺氏のレーダー探査も、ようやく以前の調査の補完部分を終え、新たな段階に入った。彼は現在プラットホームの中に何かを探すために、レーダー探査機のセンサーをプラットホームの切り立った部分の壁に斜めに走らせている。センサーを斜めに手で持ちそれで壁を撫でまくっていく作業員は二人。大変な重労働である。渡辺氏の配下についた作業員が一番楽だな、と思っていた今までの認識はここで完全に覆された。
 さて、西野氏から取材メモのファクシミリが届いた。大変参考になる。
 ツミの話は着目すべきだ。さらにロロ神殿本体の地下の推理も面白いと思う。ここで何が撮れるか。島田教授に話を聞いてみようと思う。
 だが、あと一〇日間の現地で何が出来るか、考えてみなくてはならない。ツミは義井氏と相談だ。神殿本体の地下は?
 トカゲ村の撮影が「季節外れ」とのことで(エミリオ氏にかかってきた電話によると、今のシーズンはあまり食用になるトカゲが出てこないのだそうだ)駄目になったので、日曜日は早朝の文化庁長官のインタビューの他は完全な休みの日とした。スタッフは疲労困憊している。特にエミリオ氏と運転手のロンメル氏の疲労が著しい。土曜日は引き続き発掘と現地の伝説を知る婆さんの話、エクトル一家その後、バタングランデのディスコパーティ、その他を撮る。
 ディスコパーティは毎週喧嘩になるそうだ。エミリオ氏の話によると「ここーの人は、お酒飲むと、人間変わるね。ナイフもって暴れる人出るね」だそうである。エミリオ氏は「だからやめた方がいいよ」ということが言いたいのだが、テレビ屋としては面白い。発掘とは、ぜえんぜん関係ないが。
 ところで、人事発令のコピーも西野氏のファクシミリに混じっていた。私も「シカンプロジェクト」の中に入っている。これで東京に帰ってもシカンに専念できる。ありがたい。

 95/7/16

 小川様、西野様、穴水様

 本日はお気楽な日を過ごしてしまいました。詳細は後述の通りです。東京はいかがでしょうか。
 最近我々、取材クルーの間では「我々取材班はついに、、!」と言うのが口癖になっています。エミリオ氏がいることが大きな原因です。ご存じの通り、彼はかつて例の「川口浩探検隊」のコーディネーターをやったことがあり、その時の話を面白おかしくしてくれます。実に愉快です。
 TBSでもあの手の番組を作りませんか。何でしたら、このシカンプロジェクトをそのテストパターンとする、というのではいかがでしょうか。
 そのためにという訳ではなかったのですが、昨日、ロロ神殿の近くで「光る物体が森の中に降りていった」だの「誰もいないのに話し声がする」だの「人魂が新月の夜に必ず現れる」だのの話をしてくれるおじさんおばさんのインタビューも撮ったことですし。(小川さん、勿論、冗談です。本気にして怒らないように)
 ところで「スペースJ」の視聴率は如何でしたか。オウム事件はその後どうなっているのでしょうか。NHKの国際放送を聞いていたら、今日が阪神大震災のちょうど半年後だと言っていました。今年が始まったばかりの、あの神戸の日々を思い出します。私は灘区に三カ月いました。何だか「カンムリョーオオオ!」です。
 「ANA通信」に是非ともオウム事件その他の日本の様子を執筆下さい。

*ANA通信とは穴水女史から私宛に送られるファクシミリに、女史がつけた名前。

 それから、辞令によると、月曜日から西野氏は「スペースJ」から「ニュースの森」に移ったはずですが、今後、このファクシミリはどこに送ればよいのでしょう。番号をお教え下さい。穴水女史のデスクのある報道特集でいいのでしょうか。

 インタビューが一本、あとは休みである。ペルー共和国文化庁長官のインタビューが午後五時になったため、朝の九時頃に起きて、シカンの本などを読んだ後、外にぶらりと出ていった。
 靴磨きの少年に靴を磨いて貰った。連日の発掘作業取材で、靴が微細な砂だらけなのである。靴紐をいったんはずしての丹念な作業だった。本来他人に靴を磨かせるなどという行為は実に尊大傲慢で、とんでもないと思っている。が、このチクラヨという町ではこの靴磨きが実に多い。人も普通に磨かせている。外国は日本ではないのである。
 少年は私を見上げて、何とかかんとかカラテ!と、やはり言った。私は座ったままで空手のポーズ(のようなもの)をとった。少年は笑っていた。
 靴は見事に光った。一ソレス。約四〇円である。
 昨日のことから書こうと思う。
 給料日だった。島田教授が作業員に札束を配る。札束と言っても一〇〇ソレスちょっとである。一日の給料が一五ソレス。およそ六〇〇円。バタングランデでは最高額レベルだそうだ。人間が安い。
 作業員の貰った給料の中に「五〇〇〇〇〇〇」という数字の書かれたお札が混じっていた。五〇〇万インティだそうだ。ソレスの前の貨幣単位である。フジモリ政権以前のインフレで、この桁数となった。現在では同じお札が五ソレスとして流通している。
 恐らく、ペルーは本当にましになったのだろう。フジモリ大統領支持のポスターが町中にべたべたと貼られ、支持率が八〇パーセントを越すのも、少し納得できる。
 現在のインフレ率は殆ど〇パーセントに近い。まあ、米ドルに連動させているというからくりもあるらしいが。
 だが、日常生活の中で毎日五〇〇万インティ札を見せられていれば、良い時代になったね、と思わざるを得ない。それは容易に理解できる。
 ポマ地区の夕陽を撮るためにロロ神殿の近くの別の神殿、ペンタナスに登った。ペンタナス神殿に登るのは、さほどきつい作業ではない。ここは低いのだ。だが、神殿の屋上はロロ神殿よりも広い。土の塊となったアドベ煉瓦の積み重ねが「屋根」からいくつも突き出している。夕刻で、その一つ一つの影が長く、かつエミリオ氏から、祟りがあるだの呪いがかけられているだのの話を聞いたので、多少は不気味に見えるかと思ったが、さにあらず。さわやかな夕刻であった。景色が良い。薄暗くなっていく広がる森の中からいくつもの神殿群が頭を見せている。西にロロ神殿が見え、その右側に夕陽が沈む。ブラウン管の中の風景である。当たり前だ。ブラウン管の中の風景を撮っているのだ。
 夕陽を撮った後、夜景を撮るためにしばらくペンタナス神殿の上に残って、光が消えていくのを待った。待っている間、カメラマンの土肥氏が話を切りだし、ひとしきり穴水女史の話題となった。
 土肥氏は彼女を称して「完璧な美女」と言い切り、義井氏と私がそれに同意した。エミリオ氏は彼女を見ていないので、意見を述べなかった。内田氏は特に何も言わなかった。その理由は後に述べる。
 しかし、話せば話すほど、我々は女史のことを何も知らない、ということのみが分かってくる。三人の情報をすべて寄せ集めても、正確な年齢すら分からない。ミステリアスである。
 分かっているのは、以前、製作会社テレビマンユニオンにいたこと、左手薬指に指輪をしていたりしていなかったりすること、家は横浜にあるが、六本木に「おばさんの家」があること、くらいである。このうち、三つ目が大いなる推測を呼んだ。情報源は義井氏である。
 あやしい。
「おばさん」とは何者であるか。しかも場所が六本木である。これが「おじさん」であれば、あまりに怪しすぎるが故にそれは真実であろう。だが、それがおばさんとねじ曲げられているところに彼女が隠したい何かがあるのではないか。
 だが、結局我々三人は「そのようなことはない」という結論に達した。なぜならば、三人の誰もが「よしんばそうであっても、それは信じたくない」という共通の認識を持っていたからである。
 渡辺氏は車の中で寝ており、エミリオ氏は彼女を知らないが故に話題に参加しないのは当たり前だとしても、VEの内田氏はどうしたのか。
 内田氏の頭の中はミルースカ嬢のことばかりだった、と私は推測する。
 内田氏に言い寄る例の女の子の名前は「ミルースカ」だと判明した。バタングランデ村に行き、仕事に空きが出来ると、彼はバタングランデ広場北西、ミルースカ嬢の家の前に、いそいそと出かけていく。そこに彼女は待っている。彼女は、我々の車が到着すると、家の前で一日中我々の仕事風景を見ているのだ。
 内田氏の手にはスペイン語会話の本がある。彼女の手には「日本語を話しましょう」というスペイン語で書かれた日本語教習本がある。彼女は一八歳。なかなか美人である。きっとバタングランデでも「ミルースカちゃんは村一番の別嬪だわ」と言われているであろう。
 しかし、いったい彼はこれからどうするのだ。もはや「別に何でもないっす」という段階を越えている。トラジェディなエンディングにでもされたら、今後の取材に支障がでる。だが、ハッピーなエンディングになるだろうか。それはそれで面白いが、現実問題として考えがたい。最良の選択でも、ハッピーなトゥービーコンティニュードくらいである。問題の先送りだ。泥沼である。
 夜九時半になって、バタングランデ村、土曜のダンスパーティを撮りに行ったところ、やってない。他の村で開催することに変わっていた。ペルーではこういうことが実にしばしば起きるそうである。我々はすごすごと帰った。必然的にダンスパーティは来週土曜日に取材することになる。我々のチクラヨ、バタングランデ最後の夜である。
 当然ミルースカ嬢も来るであろう。パーティは明け方近くまで続くそうだ。取材は遅くとも一一時に終わる。内田氏はそれからどうするだろうか。翌日にはリマに行き、さらに次の日の深夜に彼は日本に帰ってしまうのである。
 今回の取材で本当に一番面白いサブストーリーは「日本から来たアキオ(内田氏の下の名前)物語」だ。
 さて、本日は偶然チクラヨ滞在中だった文化庁長官のインタビューを除くと休みだった。長官は三日前のアポイントメントでインタビューを快諾していた。彼は義井氏の友人でもあり「日本人テレビクルーは本当に有り難い。本来、我々がやらなければならない記録の仕事をやってくれる。ブラボーブラボー」という調子だった。
 だが、長官は約束の時間に五〇分遅れてやってきて「飛行機に間に合わない」と言いながら去っていった。インタビューは改めて来週の月曜日にリマでやることになった。ペルーではこういうことは実にしばしば起こるのである。
 土肥氏がホテルの厨房を借りてすき焼きを作った。
 もし日本のホテルでそんな申し出をしたら、シェフが激怒し、その激怒を押し隠しつつ、客室係が「誠に申し訳ありませんが、当社の規則では、、、」ということになると思うが(だから、私も土肥氏も「いや、特に無理にとは言いませんよ、恐縮ながら、もしも、出来れば、そのような可能性がほんの少しあるのならば」という調子だった)、ところがエミリオ氏は例の調子で、OKOK、ダイジョブね、と交渉し、シェフも、OKOK、ダイジョブね、となったのだ。
 土肥氏の料理の腕前は、その手さばきを見るだけで、察するにあまりある。
 彼は既婚である。赤ん坊もいる。その写真をいつも持ち歩いている。料理が巧くて、好きだ。つまり理想的な旦那と言えるであろう。
 醤油味は実に旨い。山男、土肥氏は山での醤油の効用について、ひとしきり語った。要約すると、醤油をかければ、山で食えないものは無いのだそうだ。我々は、久しぶりの醤油味の旨さに、等しく納得した。
 昨日もバタングランデ村で夜九時半になるということで、我々は砂漠の中でカップラーメンを食べた。土肥氏が持ってきたバーナーが役に立った。
 ただし、そのバーナーは東京から持ってきた小型万能バーナーだ。チクラヨで買った例の巨大コンロではない。あれは一体何に使うつもりなのだろう。
 今日のすき焼きは、日本でいえば最高級の肉(安い)を分厚く切って作ったもので(この部分がすき焼きとは言いがたい)、そこにペルーの野菜が加わる、何とも贅沢なものだった。
 だが、旨い、贅沢は確かで、その上、更にこんなことを言うのもなんであるが、海外にいて食べたくなる和食とは、食べ慣れたシンプルな和食のことが多い。すき焼きに文句は全くないが、今、食べたいのはアジの開きであり、さんまの塩焼きであり、西日暮里駅(私の家の最寄り駅)の立ち食い蕎麦である。
 泊まっているガルサホテルには多くの動物が飼われている。犬が四、五頭(長い毛で目が隠れて見えない犬。でかい)、金剛インコ(これもでかい)、オカメインコ、ボタンインコ(それぞれ多数)、何という種類か分からない猿(舌と尻尾が長い)、豹の子供のような獰猛な山猫。ほとんどがプールサイドで寝そべっている。そしてアルパカの子供がいる。この、子アルパカが可愛らしい。
 子供とは言っても体長一メートル半はある。高さが、首を伸ばして私の肩くらいというところだ。
 おとなしい。人間が近づいても逃げないが、頭を撫でようとすると嫌がる。それでも頭に触ったり、首をつかんだり、耳を引っ張ったりしてると「キューッ」と小さな哀れな鳴き声をあげる。長い首の先に大きな目(黒目ばかり。直径およそ三センチ。ほぼ真円)のついた長い顔がついていて、鼻梁は長く、その先に兎のような鼻先と口がついている。こうやって書くと変な顔だ。だが何と言えばいいのか、その変さが良い。
 我々の取材車がいつも停まっているところに繋がれているので、朝、出る前に耳を引っ張り、首をくすぐり、夜、帰ってきたら、脇腹をくすぐり、鼻を小突く。「キューッ」と「メエー」の中間くらいの声を出して嫌がる。体はアルパカの毛に覆われている。贅沢な奴である。
 明日も又発掘だ。明日は島田教授と長話出来る機会がある。
 その機会を最大限に生かし、ラストの一週間をおくらねばならない。
 
 95/7/17

小川様、西野様、穴水様

 期限が迫ってきて「焦るぜ」の日と「何とかなるさ」の日が交互にやってきます。躁鬱病のごとくです。

 島田教授の発掘思い出話、その他のロングインタビューを撮った。
 教授は質問に答える前に、必ず、例外なく「そうですねえ」と言う。教授の内なる儀式だ。
 さらに、教授とは別に、バタングランデ村に生きる大人たちの「本音に迫る映像」というヤツが撮れた。
 テレビカメラに集まった大人達の中に二人、日本に行ったことがあるという人間がいた。
「俺は日本に行ったよ。『ダイイチパン』の仕事だ。一日一四時間働いて三五〇〇ドル月に稼いだ。二年間お金を貯めてここに帰ってきたんだ。
 東京にいる間に上野の博物館に『シカン展』を見に行ったよ。懐かしかったからさ。ドクトール島田とバタングランデ村は日本でも有名なんだって誇りに思ったよ。
 入場料が二〇〇〇円もした。たくさんのお客さんにびっくりしたよ。あれで日本政府は儲かったんだろ(彼は主催がTBSだとは知らない)。だけどな、ディレクターさん、ここを見てくれよ。
 あんたもこのバタングランデに結構いるじゃないか。見たろう、ここには電気すら届いてないんだぜ。電線はあるけど発電機の燃料がないんだ。サトウキビ以外に仕事もないんだ。そのサトウキビだって幾らの儲けにもなりゃあしない。
 日本政府はあの『シカン展』の儲けの何パーセントかをバタンにまわしてくれてもいいじゃないか。何で俺たちには何も残らないんだ。
 昔、インカ帝国も俺たちから黄金をいっぱい持っていった。だけど、俺達のご先祖様はそのままだった。
 今も外国人が発掘して、それをリマに持ってっちまう。結局ペルー政府のものになってしまうんだ。俺たちは貧しいままだ。
 ドクトール島田は尊敬している。俺たちの偉大なご先祖様を世界中に紹介してくれたんだからな。だけど俺たちは相変わらずだ。これは何とかならんのか」
 印象的な意見であった。

 西野氏への回答
1 神通力は解けてしまったのですね。しかし、なかなか良いグラフだと思います。
2 了解しました。
3 分かっております。
4 レーダー探査は渡辺氏によると様々な成果を上げています。前回の補完部分はこれといって言うべきところはないのですが、プラットホームの壁からは金属反応が出ています。「宝探しの印象」と「盗掘者」を避けるために、言及は出来ませんがホームの下に何物かがあるのは確かなようです。ただし島田教授に今期中に掘る意思は無いようです。
 さらに最近は神殿壁にも手を出しています。神殿壁は、現状は下の壁よりも大きく後退しているために、地面探査のような様相になります。四メートル四方の空洞状のような物が見つかりました。島田教授の許可があれば、我々が掘りたいくらいです。
 しかし「墓があるから掘るのではなく、研究課題があるから、それを解くために墓を掘るのだ」が島田教授の信念ですから、教授は掘らないでしょう。
 渡辺氏の作業は次期に生きようか、というところです。
5 二メートル掘り進むのは明日か明後日でしょう。西の墓はまだその断片すら姿を現していません。穴は迷走しています。北はアドベの壁が出ました。水平の壁で恐らく墓の蓋ではないかと思われます。出土品として上腕部の人骨が一つ。ただし洪水の影響でどこから流れ着いたのか分からないとのこと。アドベが出たことによって発掘のスピードは格段に下がりました。しかし、北については私たちが帰るまでに何らかは出る、と教授は断言していますから、期待できないことはないでしょう。
6 了解しました。下野氏とのことはリマで詰めます。
7 了解しました。我々は「再びやってくる」との思いを胸に予定通り帰るつもりです。

*これらの答えが何を意味していたのか、今となっては分からないことが多い。西野氏からのファクシミリを紛失してしまったので二、三などはさっぱり見当がつかない。恐らくは予算をあまり使うな、というようなことではないかと思われる。
 一は「スペースJ」の視聴率グラフをファクシミリで送ってもらっての感想だろう。常時三〇パーセント近くを記録していた「スペースJ」も、この時期、ようやく一七、八パーセントに落ちつきつつあったのだ。
 で、注目すべきは六、七だ。
 これは、ま、今回はしようがないわいな、という東京側の(小川、西野両氏の)結論である。もともと一ヶ月そこらで発掘取材の目途を立てろという方が変で、そんなことは最初から分かっていた、と書いてあったと思う。
 何じゃそれは、と思いつつも、私は少々安心した。
 私は今現在までと、残された一週間ちょっとの発掘(これまでの状態からスローペースは予想できた)の間に撮っただけで、何らかの番組をでっち上げないといけないのかと、恐れていたのだ。
 西野氏からの指令はこうだった。
 疋田は予定通り一カ月で東京に帰れ。
 その後のカメラ報告は日本電波ニュースの下野カメラマンに、週に二日程度で頼め。 
 その下野カメラマンが撮ったVTRを東京に送る手段を確保せよ。
 めぼしい発掘品が出るのは、小川、西野両氏の経験上、今から一カ月はかかるだろう。その間の下野VTRを東京で検討し、その結果如何で、二度目の疋田派遣としよう。
 てなことだった。
 当時の私は、これで本当に気が楽になった。

 95/7/18
 
 北側の墓の底が綺麗にならされた。キャタピラの跡が見つかったからである。盗掘者はここまで掘っていたのだ。
 そして、同時に分かったことが一つ。それは、今日が本当のスタートだということだ。つけ加えて分かった。遺跡の中の何物かは、いよいよ今回の期間内に出ることはない。
 西側の穴はいぜんとして迷走を続けている。とにかく墓の切り口が見つからないのだ。教授が自信満々に語った「墓のあるところ」を掘り下げてはいるのだが、今のところは盗掘者の掻き回した、その跡を掘り返しているだけだ。
 盗掘者跡とは何か。少々説明がいる。
 そもそもロロ神殿に島田教授が着目したのは、盗掘者たちからの情報が大きかった。教授は一七年前から、地元の元盗掘者たちに対して、熱心なインタビューを続けてきた。
 そしてその結果のロロ神殿発掘という側面が大きいのだ。
 ペルー北部、中でもバタングランデ周辺は、掘ると黄金製品が出る地域として、地元では(あくまで地元だけでは)昔から有名だった。そして当然のように、多くの盗掘者たちを生んだ。
 かつてバタングランデに君臨した地主などは、その盗掘者の親玉のようなものだったという。オウリッチという名前のその地主は、使用人を多数雇い、集団的盗掘作業を行っていたのだ。
 かつてバタングランデでは、黄金をもたらす盗掘こそが最大の産業と見なされた時代さえあった。何だか舟戸与一氏の小説「山猫の夏」を思い出す。
 盗掘者たちは、半ば公然と、だが、基本的には違法行為として、バタングランデ周辺を掘り返し続けた。その闇雲に掘った盗掘の跡は、信じ難いことに一〇万にも達する。だから、ヘリコプターで飛んでこの地域を見てみると、バタングランデ周辺の、ある地域は穴ぼこだらけの、まるでクレーターが密集する月の表面のように見える。
 闇雲にしても、一〇万も掘り返せば、盗掘者たちも経験的に何かを学ぶ。
 黄金が出やすいところと出にくいところ、その目印は、アドベで出来たロロ神殿をはじめとする神殿群だった。
 神殿のどの部分を掘ればよいか、それは墓の深さも問題になってくるから、大規模な発掘を行わない限り、本当のところは見えてこない。だが、彼らはブルドーザーを使って掘ろうとさえした。キャタピラ跡とはその跡だ。
 だが、彼らは手っ取り早く黄金を手に入れたいから、ある程度掘って出なかったら諦めてしまう。
 教授はシカン貴族の墓はもっと深いと考えていた。
 教授はかつて、このロロ神殿に関して、西の墓の盗掘跡を見たのだという。その際、この程度の盗掘の深さだったら、まだ墓の最底部には達していない、盗掘者は途中で諦めたと睨んだのだ。
 そして、それから年が過ぎ、教授の記憶も少しく曖昧になり、洪水が起きて、盗掘跡も何もぐちゃぐちゃになってしまった。
 大まかな位置は覚えている。だが洪水の後、それが正確にどこなのかは誰にも分からなくなってしまったのだ。
 西の墓とはそのぐちゃぐちゃになった部分を掘っているのだ。
 教授は「まだ今の時点では、何の価値もない穴掘りですよ」と言っている。それもその筈、盗掘者の掘った跡をクリアして、古代の掘り跡をまず見つけなければ、何も始まらないのだ。
 昨日から今日にかけて、北の墓に関してはそれがようやくクリアできたというところだ。だが、元々、北の墓はおまけのようなもので、盗掘者にしても「まあ掘ってみるか」という程度に過ぎなかったのだと思う。
 だが、西の墓はシチュエーションからして違う。プラットフォームが神殿に接続する付け根の部分、黄金が出るポイントの一つだ。盗掘者たちにしても気合いが入ったろう。
 教授は、その盗掘者の掘り跡がまだ墓の本体には達していないと見ている。だが、盗掘者たちは一体どれだけ掘ったのか。二メートルか、五メートル下までか、一〇メートル下までなのか。
 いずれにせよ、核心の西の墓の発掘は、そのスタート地点に至るまでにまだまだかかるだろう。

 エクトル氏の家に又行って来た。オリビア嬢の従兄弟たちがたくさん遊びに来ていた。
「オリビアは中学校を卒業したらチクラヨの町の学校に行かせる」エクトル氏はそう語った。
 エクトル氏の家には電灯もない。テレビもない。時計もない。何もない。
 ついでに言うと屋根がある部屋は二部屋しかない。
 
 95/7/19

 北の墓のキャタピラ跡の下から、アドベ煉瓦が出た。
 予想通り、ここから下は盗掘者に荒らされていないのだ。北の墓主任であるラファエロ氏が、俄然張り切りだした。
 西の墓は相変わらずの迷走。墓の切り口は見えてこない。
 今朝、チクラヨから発掘現場に至る途中のサランダ村で、山羊を解体しているところを見た。聞けば、サランダで山羊を買って、チクラヨの市場に持っていこうとしたのだが、山羊をバイクの荷台にくくりつける際に、足の骨を折ってしまったのだという。だから、こんなところで肉と皮に解体しているのだということだ。
 今は死体となってしまった山羊の首に縄をくくりつけて、木にぶら下げる。そしてナイフ一つで、ずるりずるりと皮を剥ぎ、肉を削いでいく。
 勿論グロテスクな風景には違いないが、その作業の巧みさは見事なものだと思う。山羊の冥福は祈るが、人間とはこの作業なくしては生きられない動物ではある。
 ナイフを振るっているのは一人、そばにその一人の子分だか弟だか息子だかの男がいて、山羊の足を押さえながら親分の作業を見守っている。
 ここに住む男たちはこの程度の作業は出来ないと男として見なされないのだ。
 だが、それはむしろ自然なことだと思う。こういうことが、生きるということの現実感なのかも知れない。
 生きている、ということの現実感は、死という現実を目の当たりにすることによって初めて得られるものなのだろう。そういう意味では日本で生きるということは、その種の現実感を欠くということなのかも知れない。そして実際に欠けている。
 生き物を殺すのは嫌なことだ。だが、我々はそうしなくては、生きていけない。
 以前、宮崎県の南部の、とんでもない田舎に私は住んでいた。
 中学校二年生頃だっただろうか、私と、その友達と、家から六〇キロくらい離れた山奥のキャンプ場にテントを張ったことがあった。キャンプ場とは言っても、アウトドアブームもなかったし、当時の宮崎県だったし、何もなかった。ただ、キャンプ場との看板があるな、という程度だった。 
 「文明がなくても生きていける」「今ここで、人類が破滅しても、生き延びていける」、そういう人間になりたいと、そんな意識が、我々ガキの心の中にはあった。そのための修行をしているのだと、我々ガキどもは、思っていた。
 間違いなく、当時流行の漫画に影響されたのだった。
 最初の泊まった日の夕食は、川で釣らなければいけなかった。
 漫画の主人公になりきっていた我々には望むところだった。望むところも何も、漫画に毒されていた我々ガキ二人が自らそうしたのだ。当たり前だ。
 当たり前だから、我々は釣竿も持ってきていた。
 当時の発展途上県、宮崎では、魚は素人の中学生の手でもあっさりと釣れた。
 だが、それを食べられる状態にするのは、易しくなかった。魚はまだ、生きていた。
 私は、生きている魚をつかんで、口から竹ひごを通した。
 横隔膜(と言うのかどうか)を竹ひごが通るとき、厭な感覚が、手に伝わった。
 魚は激痛に(恐らく)身を震わせた。
 しばらく死ななかった。竹ひごを焚き火の横に突き立て、身体がだんだん茶色に染まろうとしているのに、それでも魚は思い出したように、身体を捻った。
 厭だ厭だ、と思った。漫画の主人公も案外、厭だなと思った。
 今でも、竹ひごを通したその感覚は私の手に残っている。
 甘いのだ。結局。
 私はそれを克服できないでいる。それを克服することこそが、人間と自然と、その摂理をより高いレベルで知ることだと分かっていつつも。
 山羊の皮を剥ぐ、ペルー人を見ながら、凄いな、と思う反面、やだな、とも思う。だが後者は明らかに間違っている。
 文明はそういう種類の厭なことを極力排除することに精力を注ぎ込んできた。その結果、生きるということの現実感をなくしていったのだ。

 95/7/20

 第一期取材もいよいよ終盤に入ってきた、と先ほどフロントで受け取った西野氏よりのファクシミリに書いてあったが、実は終盤どころではなくもう後がない。明日からは何とか今期のつじつまを合わせるための取材である。
 発掘は相変わらずである。
 北の墓はラファエロ氏が熱心に図を描きメモをとっている。
 西の墓は迷走中。変わらず。
 ちっとも変化のない現場で、元気なのは地中レーダー技師の渡辺氏だ。北と西のトレンチとは全く別のところに地中レーダーをかけ、島田教授や私たちに「ここからは絶対に金が出るぜ」と言う。
 渡辺氏が言うところの金が出る地点は、もう五カ所を数えた。
 地中レーダーに反応があるのだ。さあ掘れ、やれ掘れ、というのが渡辺氏だ。
 私が考古学者だったら、そう、やはり、多分掘るな。
 だが、真面目な島田教授は、そういったことを嫌うのだ。
「金が出るから掘るとか、墓があるから掘るとか、そういう態度は考古学ではありません。考古学は、あくまで科学的な検証の元に、ある仮説を立て、それを証明するためにフィールドワークを行う、つまり掘るものなのです」
 これが教授の信念なのだ。彼にとっては何かが出そうだから滅多矢鱈と掘る、などというのは言語道断なのである。その結果、黄金が出ようと、ダイヤモンドが出ようと、古代の王が出ようと、地底怪獣モグラーが出ようとである。
 渡辺氏は教授の要請でここにやってきた。だが、教授にとっては地中レーダーの意味は、自らのフィールドワークの補強である。
 しかし一方、渡辺氏にとっては地中レーダーこそ発掘の根拠なのだ。日本でも、数々の発掘に立ち会ってきた渡辺氏には、自信があるのだ。
「ここ掘れば絶対出るのになあ」
 渡辺氏は、ロロ神殿の北東にあるコロラド丘陵の上に腰掛けて言った。
 少々不満そうだった。
 帰りの車の中で日本のことを考えているとすぐに眠ってしまう。
 すぐにきくエアコン、土埃の入って来ない清潔なマイカー、舗装道路、明るい室内灯(このホテルの私の部屋はメインの蛍光灯が点かない。むなしく天井にあるのみ)、そのまま飲める水道、いつでも冷たい冷蔵庫、かじることの出来る氷、安定したお湯の供給(安定していないから、火傷しそうになったり、冷たいっとなったりのシャワーだ。このホテルのは)、電気洗濯機、安定した電力供給(特に金曜日には電灯の明かりがフラフラと明るくなったり暗くなったりを繰り返す)、電子レンジ、おいしいコーヒー、ネットワークにいつでも繋がるパソコン、24時間営業のコンビニエンスストア、などなど。
 何とまあ快適な生活であることか。狭いだの高いだの言ってはいられない。

*日本に帰ってくるとやはり、言う。

 現在、現地からガルサホテルに帰ってきたばかりで、一六分後に夕食を食べに行く。明日からの四日間の計画は後ほど練るとして、これからシャワーを浴びる。

 95/7/23

 二日酔いであった。午前、午後、ともに発掘取材。ともに最低。
 発掘ではなく私がである。
 ペルーのビールは旨いものが多い。こちらで最もメジャーなのが「クリスタル」と「ピルセン」そして「クスケーニャ」で、この三つが全国区。リマ市でもチクラヨ市でも、あらゆる店にこれらの三つのビールの看板が掲げてある。味は東南アジアのビールに似ている。中でも似ているのが、タイの「シンハビール・ゴールド」だと思った。なかなか美味しい。
 だが、私が最も気に入っているのは、ここの地ビール「ガルサ・リアル」だ。
 香ばしいテイストの、ちょっと軽いビールである。バタングランデから汗だくで帰ってきた後には、これ以上のものは無いと思う。
 あのスーパードライの味に、少々似ている。スーパードライについては、いわゆる食通を称する人が「美味しくないよ」というから、そんなものかいなと思ったりもするが、私は好きだ。私は食通でないから。
 そして多くの人が食通ではない日本という国で、かのビール会社が劇的にシェアをアップしたことについて、私は別段、異を唱えるものではない。
 スーパードライは日本に限らず、北米でも売れているようだった。コンビニエンスストアに行くと、バドワイザーやミラーなどに並んで、「Kirin」と「Karakuchi(スーパードライのアメリカ名)」が必ず置いてあった。
 ガルサ・リアルが売れるチクラヨでも、スーパードライは受けるかも知れない。恐らくその値段はガルサの五倍以上になるだろうが。
 こちらのビールは安いのだ。小瓶一本、三〇円程度しかしない。
 恐れ入るのは、ビールを頼むと、店員から「フリオ?」と聞かれることだ。「冷たいのがいいのか?」という意味だ。
 当たり前だ、と思うのは先進工業国の発想で、まだ冷蔵庫が一般的に普及していないこの国では、常温のビールを好む人たちも多いのだ。
 本多勝一氏によると、真に旨いビールは常温の方が旨いそうである。そういう見方もあるのかも知れない。だが、食通でない私には分からぬ。だいたい、常温だと口の中が泡だらけになってしまっていけない。
 ただ、私はこう思う。誰にとっても、飲み慣れたものが一番なのであろう。
 チクラヨには「ソレント」という名前のステーキ屋があって、ここのステーキが、涙が出るほど旨い。おまけにここで出されるビールはキンキンに冷えている。大型の業務用冷蔵庫があるのだ。チクラヨでは珍しいことだ。
 我々はもう三回この店に来た。
 ソレントはどの旅行ガイドブックにも載っていない。「地球の歩き方」によるとチクラヨは「観光すべきところはどこにもない」ところだそうだから(通常の意味では私もそれを否定はしない)、載せても意味がないのかも知れぬ。良いことだ。この店の前に日本人旅行者が行列を作るなどという、凄まじい光景は見たくない。
 エミリオ氏は例によってニコニコしながら「日本人はここーに連れて来ると、みーんな喜ぶね」と言っていた。

*ちょっと注釈を加えると、何だか私は「地球の歩き方」シリーズを批判したい人間のように聞こえるが、実はそんなつもりは全くない。それどころか、私はかのシリーズの大ファンの一人だ。二〇代の前半、あれを持ってアジア諸国を巡った。
 情報が不確かなものが多いとか、あれのせいで大学生が海外でトラブルに巻き込まれたりする、とかの批判も沢山あるようだが、私はそれはしようがないではないか、と思っている。
 あの手の本は、あくまで参考に留めればよいのだ。
 元来が、日本でない。外国なのである。それも途上国だったりするのだ。どのようにして、国内版のようなガイドブックが作れるというのであろう。
 そもそもがガイドブックに書いてあることを鵜呑みにするという姿勢が間違っているのである。
 旅の先輩がこう言おうと、どう言おうと、どちらにしても、外国の列車は予定時間通りには来やしないのである。在る筈の快適な旅館も、前夜にテロにあっているかも知れないのだ。気のいい筈の支配人が、悪人に騙されてから「改心」しているかも知れないのだ。
 だから、ソレントが本当に旨いステーキ屋かどうか、私は保証はしない。私と義井氏とエミリオ氏と渡辺氏と土肥氏と内田氏が、たまたまひどい味音痴だったのかも知れない。私に関しては「かもしれぬ」ではなく、本当にそうなのであるが。 

 発掘は進まず、今日は地元の看護学校の卒業式の取材をした。
 二〇人前後の看護婦の卵たちに、ナースバッヂというのか、看護婦の証明のバッヂが授与される。島田教授も同席した。
 最高の貴賓席で、記念撮影では教授は真ん中に座らされた。考古学と看護婦では、何の関連性もないと思われるのだが、つまりは地元の一番の名士、ということなのだろう。
 卒業式なのに、日本のような厳粛な雰囲気は全くない。
 バッヂの授与が終わると、ダンスパーティになった。例によって哀愁の大音量である。耳が痛くなる。
 教授も踊った。教授はアメリカ育ちだから、一応のダンスはこなせる。だが、あまりうまいとは思えない。スピルバーグの「バックトゥザフューチャー」に出てくる主人公の父親、ジョージ・マクフライのような風情だ。
 看護婦の資格を取って、だが、ここの娘たちには実はあまり就職先がない。
 それぞれに聞くと、チクラヨで看護婦をやりたいのに、でもコネクションが無いから、という答えが目立った。
 だんだん気づいてきたが、バタングランデ村の最高の問題は、職が無い、ということに尽きる。それは女も男もだ。
 村の中心のロータリーで、手持ち無沙汰にいる人々が多いのはそこだ。
 産業はサトウキビのみ。だが、それとて、そんなにお金になるものではない。
 もしも日本の何らかの工場が進出する、などということになれば、バタングランデ村は狂喜するだろう。
 ただ、それがどんな結果をもたらすかは別問題ではあるが。
 
 95/7/22

 土曜日。朝四時半にホテルを出た。発掘現場の夜明けを撮り、作業員たちが発掘現場に来るのを待ち受けて撮った。
 二五人の作業員たちが六時半を過ぎる頃から、ちらほらと集まってくる。発掘開始は八時からなのにも関わらず。
 この季節、この地域の朝は、ひんやりと乾いていて本当に気持ちがいいから、朝の散歩、そのまま仕事、というところなのだろう。
 ある者は驢馬に乗り、ある者は自転車で来る。
 自転車の方がお洒落なのだ。だが、道は凸凹の土の道だから、自転車は難儀だろうなと思う。驢馬の方がいいのに。
 朝日とともに撮る、こうした出勤風景などは、なるだけ美しく、かつ、どの場面ででも使えるようにしておく。
 後でVTRを編集する際に、都合が良いようにである。
 今日は発掘作業が始まってちょうど二週間目にあたるのだが、この朝のカットは必ずしも厳密に二週間目、という場面で使うわけではないのだ。
「そしてまた○○日が過ぎた」
 こういうナレーション原稿を書くときに、そのバックの映像となる。
 ニュースストーリーの流れの上では、例えば三週間目かも知れないし、二カ月目かも知れない。場面転換の為のカットだ。
 厳密にいえば、「嘘」になるとも言える。
 だが、私はこういうことは「テクニック」の中に入ると思っている。事実のねじ曲げは絶対におかしいが、こうした悪意のないカットの使用に問題は無かろうと思う。
 こういうところまで厳密さを求め、例えば、毎日四時半に出発し、毎日同じような出勤風景を撮るのは、何より労力の無駄だ。
 まあ、それもケースバイケースとも言える側面もあって、この朝日と出勤風景に特別な意味がある場合はこの限りにあらずではある。
 渡辺氏はコロラド丘陵で、レーダー探査を続けている。渡辺氏についたペルー人作業員二人がセンサーを引っ張っている。
 センサーは一メートル四方くらいの機械で、橇に乗せてロープで地面を引きずる。渡辺氏はコンピューターとモニターの前に座って「そこだそこだ」とか「もっと速く」などと大声を出している。
 渡辺氏の凄いところは、この二人のペルー人と平気で会話が出来るところだ。無論、渡辺氏はスペイン語なんかこれっぽっちも出来やしない。
 だが、身ぶりと気合いと大声で、意味を強引に通す。全てが日本語。
 渡辺氏は強い。
 発掘は相変わらずだ。昨日よりは三〇センチほど深くなったかなという程度。まあ、もう焦っても仕様がない。
 同じく弊社ではあるが、赤城山発掘シリーズがちょっと羨ましくなってくる。
 あれは「TBSが掘る」というプロジェクトだから、この手が駄目ならあの手とスリリングに話を展開できる。
 だが、シカンにおいての我々の仕事は、あくまで学術的発掘の記録だから、こちらから手を出すわけにはいかないのだ。
 今日は二度目の給料日だった。
 まだ墓の切り口さえ見えない西のトレンチの横で、二五人の作業員たちは給料を受け取った。
 夕刻、発掘現場からバタングランデ村の中心地(例のロータリー近く)に移動し、バタングランデ住民の結婚式を撮った。
 新婦は一七歳。信じ難い。でかい。迫力のおばさんに見える。強烈。新郎は痩せた男だった。交尾が終わると食べられてしまうというようなタイプだ。
 けれども結婚式自体は厳粛であった。
 カトリック式で、式場の十字架が本当に十字架の意味を持っている。聖水を振りかける。牧師が説教をする。当たり前か。日本の方が変なのだ。
 だが、日本の方が変と言い切れない部分もあるぞ。義井氏が訳してくれたのだが、牧師の説教の内容は、殆ど「コンドームを使ってはいけない、子は神が授けてくれる運命の子で云々」というものに終始していたのだそうだ。流石はカトリック。そして、相当、直接的だ。席にはお互いのご両親もいる。これがこの地では普通なのか。だとしたら、文句を付ける筋合いもないのであるが。
 その後、披露宴になった。
 披露宴とは、予想通り、ダンスパーティのことだった。そして、これまた予想通りの哀愁の大音量だ。
 私と義井氏と土肥カメラマンは怒鳴り合いのように会話しなければならなかった。疲れる。
 列席者にインタビューを試みるが、疋田が怒鳴るように質問し、エミリオ氏が怒鳴るように通訳し、列席者が怒鳴るように答える。三人目のインタビューで、もう体力の限界を感じた。
 更に、夜も更け、バタングランデ村のディスコパーティを撮った。エミリオ氏がやめた方がいいと言った例のヤツである。
 午後一〇時に開場。村中の不良少年と不良少女たちが「どこにこんなに隠れていたんだ」というくらいに集まった(別にディスコで踊ることが不良的行為だとは思わないが、そこは古い時代の日本と同じなのだ。エミリオ氏は「日本語の、エー、何ですか、悪い行いの、そうそう、フリョーですね、フリョー」と説明した)。
 会場はバタングランデ中学校のサッカーグラウンドだ。オープンエア・ディスコティックである。
 当然、予想した通りの哀愁の巨大音量だ。今までの大音量の中で最もヴォリュームがでかい。何ゆえの所業か、これは。
 野外だから、バタングランデ村中に、音は轟きわたっている。住民はこの中で眠れるのだろうか、と思う。だが、文句は出ないのだそうだ。
 PAの機材は台湾製の本格的なものだ。そんなPAより、他に買うものはある筈だろうと思う。そのPAに、発電機を回して電力を供給する。その発電機のエンジン音が全く聞こえない。それだけスピーカーからの音が大きいのだ。
 頭がくらくらする。
 さて、くらくらしながらも、ディスコの風景を見てると、それはそれで面白かった。
 この国でもやはり不良少女よりは不良少年の方が多いらしく、向かい合わせで踊る相手を見つけられない少年たちが、会場の隅の方に溜まっていた。踊っている連中を羨ましそうに眺めている。
 踊っている連中に較べて、やはり、もてそうに見えない。溜まっている連中は、やはり溜まっているだけの理由があるのだな、と見ているだけで思えてきて、何やら面白哀しい。ビール瓶を投げて、キャッチボールをしたりしている。
 エミリオ氏が言うには喧嘩騒ぎになる原因は、必ず女関連だそうだ。つまり取り合いとなるのである。
 なるほどと思いつつ、ふと見ると、北の墓発掘主任のラファエロ氏がやってきた。
 発掘団には一人だけ女子学生がいて、その女性、ダイアナ嬢と連れだっての登場だ。
 義井氏が教えてくれた。
 ラファエロ氏とダイアナ嬢はかつて恋人同士だったことがあるらしい。その後、二人は別れ、今ではそれぞれに別の相手がいるのだそうだ。
 その二人が、発掘現場近くの村で、手を取り合って踊る。
 手を取り合ったり、キスをしたりすることについて、日本のような意味がある訳ではないのだろうが、それでも味わい深い。
 そう思うと、ここに集まったバタンの若衆たちも、様々な愛憎の事情があるように思えてくる。あっちのカップルはどうだ、こっちはどうだ、とね。それぞれに勝手なストーリーを作ってしまう。
 だが、音量は巨大。頭くらくら。尤も彼らにとってはそうではないのかも知れないけれど。
 椎名誠風に言うと、愛と別れのバタングランデの夜は、こうして哀愁の巨大音量とともに更けゆくのだ。
「ヒキータさん、きり無いよ。みんな今日は朝の四時頃まで踊るね。そのうち喧嘩になるね」
 エミリオ氏である。
 結局、一二時に帰ることにした。
 その間、ずっと待ってるしかない渡辺氏は不機嫌だった。バタングランデとチクラヨを結ぶバス便は、あることはあるのだが、もとより時間は不規則だし、そもそもこんな夜中に出る便はない。彼は我々と行動を共にしなくてはならない運命にあるのだ。申し訳なかった。

 95/7/23

 とりあえず今回の取材は、発掘が始まるまでの一部始終と、発掘が始まってしばらくの様子だった。
 今日はこの町を離れる日だ。
 朝、教授と我々と食事をした。今日は発掘は休みだから、教授はチクラヨのホテルにいるのだ。ガルサホテルと並ぶ、チクラヨ市屈指の「高級ホテル」、インカホテルに泊まっているのだそうだ。
 我々は、チクラヨとバタングランデとを毎日往復しているが、彼の場合、通常はバタングランデの宿舎に泊まっている。バタングランデの宿舎は、電気がなく、発電機を回している。灯油が勿体ないので、電灯を点けるのは夜の三時間だけだ。それ以外は蝋燭なのだ。シャワーなどは勿論、無い。だから教授は週に一度、チクラヨのホテルにやってきて、シャワーを浴びたり、洗濯をしたり、論文のコピーをとったりと、そういうことをするのだ。
 大変だ。
 教授は淡々と、食べ物の話をした。チクラヨの旨い店は皆知っている、と言っていた。彼は実はグルメなのだ。チキンラーメンが好きなことは置いておくとして。
 バタングランデ村にモーリおばさんという太ったおばさんがいる。彼女が発掘団の一切の食事の世話をするのだが、このおばさんは、教授が「料理のマエストロである」と認定して連れてきた人だ。我々も食べてみたことがあるが、実際に旨い。
 教授が書いた、シカン東の墓に到るまでの発掘記(「黄金の都、シカンを掘る」朝日新聞社刊)の中にも、この、モーリおばさんは登場する。「寸胴を抱いた女神」と表現されていた。
 教授はその本の中に、腹が空いては発掘は出来ない、とか、旨いものを食べなければ発掘の意欲が湧かないだとか、そういうことを結構書いている。
 真面目一方の教授の本の中で、唯一、微笑を誘う場面だ。
 大切なことである。
 教授はチクラヨの色々な店について、解説を加えた。渡辺氏は旨い店について、いちいちメモをとった。渡辺氏も我々と同じく、再びやって来るつもりなのだ。
 私は「ソレントはどうですか?」と聞いてみた。
「あそこは確かに美味しいね」とのことであった。
 今日の朝食はガルサホテルの中のレストランだったので、アメリカ式の食事だったが、チクラヨには無論、ペルー料理を出す店が多数ある。
 ペルー料理の代表といえば、何といっても「セビッチェ」だ。
 セビッチェとは、酢漬けのことで、慣れるまでは酸っぱ過ぎて辛過ぎる料理だ。中身は様々。最もポピュラーなのが、平目のセビッチェで、他にも蟹、貝、海老、なんだかよく分からない魚など多岐にわたる。まあ、総じて魚介類だ。全て生である。
 この国には、酢漬けとはいえ、魚を生で食べる風習があるのだ。日本に似ている。良い漁場が近くにあるということと無関係ではあるまい。
 黒潮と親潮が出会う日本近海と同じく、ここにはフンボルト海流と南太平洋海流が出会う潮目があるのだ。世界の三大漁場の二つがペルーと日本の両国にある。
 ついでに言うと、この国の最もポピュラーな穀類は米だ。
 あろうことか、主食という概念すらある。あらゆる食事に、日本のように炊いた米が出てくる。
 何となれば、それは八〇年前に、日本人移民が伝えたのだ。その時から、この国の食文化に米が根付いた。だから、我々のような輩は、この国の食事に非常に馴染みやすい。
 ただし、米の種類はインディカ米である。タイなどで作られる、細長い米だ。パラパラしている。
 義井氏によると、ジャポニカ米もあるにはあるが、人気がないのだそうだ。そういえば、私もリマの日本料理屋以外で、ジャポニカ米を見たことがない。ジャポニカ米は作るのが難しいのか、気候に合わないのか、そういうことかなと思えば、そうではなかった。
 決して、栽培の難易や値段の問題ではないのだそうだ。
 最初に伝わったのはジャポニカ米だった。
 日本人が伝えた米だったが、世界にはもっと旨い米があるぞ、とペルー人たちは何かの弾みで知ったのだろう。で、この国には最終的にインディカ米の方が根付いたのだ。
 以前、九四年に日本で米不足が起き、タイから米を輸入するという事態に陥ったことがある。タイの米は不味いとか、やっぱり米は日本に限るとか、タイ米は捨てるとか、醜い発言、事件が相次いだが、馬鹿を言っては困るのだ。
 日本の米に国際競争力は全くない。それは値段が高すぎる、などの問題ではなく、有り体に言って、日本の米は「不味い」からなのだ。こんなにねばねばした米は食えたものではないのである。
 私だって、確かに日本の米は好きだ。普通に日本で食べるご飯は、ジャポニカ米に越したことはない。だが、インディカ米には、ジャポニカ米と違う旨さがあることも事実だ。
 要するに慣れに過ぎないのだ。
 九四年のあの時期、「不味い」と言ってタイ米を投げ捨てた、その深層の心理に「俺たちゃあ、豊かな日本人だ。こんな未開の連中の米なんぞ食えるかい」という意識がなかったと言えるだろうか。そして、そんな意識を私は卑しいと思う。
 九四年、ちょうどあの時期、私は一カ月ほどタイとミャンマーにいた。
 ミャンマー軍事政権の取材だったが、時期が時期だけに、東京からの要請で、タイの米の輸出の風景も撮った。タイの「農業組合長」が、私のインタビューに対して、次のように答えた。
「これをきっかけに、我々は日本への輸出の道を開きたいと思っているんだよ。何といっても、日本は世界最大の米のマーケットだからね。
 我々は、日本の皆さんに、タイの米の美味しさを知ってもらいたいと思っている。だから、日本に輸出する米は、最高級のものばかりだ。『ホンマリ』と言うんだよ。三年前に品種改良されたものだ。我々はこの米の味に自信を持っている。日本にも美味しい米があるらしいね。確か、コシヒカリとか言ったかな。私は食べたことがないけれど。
 だけど、我々のホンマリはコシヒカリにだって負けないと思うよ」
 タイの組合長は赤ら顔で笑った。
 日本人にはその米の美味しさが理解できなかった。理解できないどころか、不遜にも、食わず嫌いの上にただ単に、不味いと言ってのけた。
 日本人という集団が、外の世界を知らない田舎ものの集団だということを語って余りある事件だったと思う。それは悲しいことだ。
 アユタヤの店で食べたお粥の、あの優しい味を私は忘れない。さっぱりした中に馥郁とした旨味をほのかに漂わすあの味は、ジャポニカ米では再現できないだろう。
 ちなみにペルーの飯だって旨い。インディカ米ではあるが。
 ところで、セビッチェの具で最もポピュラーなのが平目だとは先ほど書いたが、この平目が、ぶつ切りにされ、酢の中に山盛りになって出てくる。
 平目はペルーの中では、最も身近な魚で、日本のサンマくらいに当たると言える。大衆魚なのだ。淡泊な味の魚だから鼻につくということはないが、ここまで沢山出てくると有難みはかなり薄れる。薄く切ってポン酢で食べたら、さぞや美味しかろうと思うが、ここでは叶わぬ夢だ。
 TBSがある赤坂界隈でこの同じ魚が同じ量出てくると、支払いは五桁になろう。
 こんなチャンスは無いぞと、セビッチェを頼む度に、平目、平目と言い続けたが、もう正直言って飽きた。
 さて、教授との朝食会が終わると、我々はクルマに荷物を積み込み、チクラヨシティマーケットへの取材に向かった。
 クルマはエミリオ氏に委せ、リマで再びおちあうこととなるのだ。
 チクラヨの市場は結構な広さがある。二〇万都市の住民の多くがここまで物を買いに来るので、大した賑わいだ。
 食料品が多い中に、ぽつぽつと奇妙な店が数軒ある。
 木彫りの、なんだか悪魔のような顔の置物があったり、サボテンが軒下に山ほど詰まれていたり、薬草のような物が広げてあったり、奇妙に捻れた棒が傘立てに沢山差してあったりと、そういう店だ。
 義井氏が解説する。
「これはねえ、魔術師の店なんだよ」
「占いか何か、そういうことをやる店ですか?」
「そうじゃないんだ。魔術師のための店なんだよ。魔術師というより、呪術師だな。ペルー北部にはまだ、呪術師が沢山いてね、いまだに病気を治したり、呪いをかけたりしているんだ。この店は、そんな呪術師が、自分の呪術や儀式を行うための道具を買うための店なんだ」
 呪術師にも、なかなかコンヴィニエントな店があるのだ。
 店のオヤジが色々な物を見せてくれた。
「この捻れた棒は、病気を治すための棒だな。こうするんだ。お兄さん、肩凝りはないかね、うん、この辺だな」
 オヤジはその棒で、さわさわと私の肩をさする。
「どうだい、肩が軽くなったろう」
 問われても困る。
「うむ、あまり効かんか、まあ、わしは、別に呪術者というわけじゃないから、そんなに霊験あらたかなわけにはいかん。だがな、これを本物の呪術者が使うとする。すると、大方の病気は治っちまうという寸法だ」
 向こうに山のようにあるサボテンは何ですか、と聞く。
「あれはなあ、何と言えばいいか、その、むにゃむにゃだ」
 義井氏が話を引き取る。というより、エミリオ氏がいなくなった今、通訳しているのが義井氏だから、そのまま義井氏が話を続ける。
「あれは麻薬だよ。儀式の時に使ったりするヤツで、紅茶の中に混ぜて飲んだりするんだ。飲むと、幻覚が沢山見えるんだそうだ。
 だけど、その後がひどいらしいね、みんなゲーゲー吐いて、しばらくは治らないんだって。
 疋田君、やってみる?」
 興味はあるが遠慮した。
「この国はこうした麻薬関連、というのか、こういう植物に対して割合、寛容なんだね。山岳地方では、コカの葉を噛んだりしているし」
 それは私も聞いていた。
 世界を大まかに二つに分けて、アルコール文化圏と大麻文化圏があるそうだ。大麻文化圏の中には、インド、ヒマラヤや、昔の中南米、つまりこの地域などが入ってくる。だがアルコール文化圏は、ヨーロッパを含んでいたために、つまり、征服者達を含んでいたために、大麻はことごとく駆逐されることになった。
 大麻には特に大きな危険性はないのだが、現在でも禁じられているのはそういうことの影響が大きいそうだ。
 だが、伝統的なものは残る。こういう植物に関して、割合寛容なのは、その伝統に根ざしているのだろう。
 ついでに誤解を解くために言えば、大麻と麻薬は全く別物である。勿論、覚醒剤とも全然違う。日本語にすると、麻が共通するので、混同されてしまいがちだが、大麻には、麻薬の危険性である肉体的な習慣性、非可逆的耐性などは無いのだ。
 このサボテンが何にあたるか、麻薬の一種なのか(まあそうだろうな)、習慣性はあるものなのか、そういうことは分からないが、しかしながら、チクラヨの市場では堂々と売られている。呪術師用の店だとしても。まあ、そういうことだ。
 他にも草を干したのが沢山ある。病気を治す薬草もあれば、線香のように燃やして、匂いで儀式を盛り上げるものもあるそうだ。
 私はここで、先の病気を治す聖なる杖を一本買った。まあ、霊験を期待しているわけではないが。
 その棒をよく見ると、変てこなことがある。
 この聖なる杖には、キリスト教の牧師の立像が小さく彫られているのだ。聞けば、聖フランシスコ像だと言う。土着の呪術に使う道具なのに、カトリックの聖人である。
 カトリックの牧師たちは「未開人たちの蒙を啓き、キリスト教の正しき教えを広める」為に、この地に布教しに来たわけだから、何だか笑ってしまう。
 彼ら牧師たちの奮闘努力の末、現在、この国の殆どの人々は敬虔なるカトリックの信者だ。だが、同時に、このような田舎では四〇〇年以上前からの、呪術や魔術が生き残っているのである。
 だが、矛盾してるよ、と笑うには、日本の宗教史には共通点がありすぎる。さしずめ、仏教はカトリックで、神道が呪術だ。神仏混淆などというのは、まさに聖なる棒に描かれた聖フランシスコ像と同根だ。
 帰りの飛行機は予定通りに出発し、予定通りに着いた。
 リマとはこんなに大都会だったか。
 シェラトンホテルはこんなに高級ホテルだったか。
 アドベと土埃とアルガロボがないことに私は驚いた。

 95/7/24

 シェラトンホテルのロビーに朝8時半集合で、ペルー国文化庁長官のインタビューとなった。チクラヨで、実現できなかったあの人だ。
 フレンドリーな頭の禿げたおやじだった。義井氏の話によると、いつもは執務室でもジーパンとポロシャツでいるそうだ。この日はテレビに写るからということで、スーツを着てきたらしい。
 なるほど、言われてみると「着こなしていない」という様に見える。
 背広という服は、なぜ着慣れないと似合って見えないのだろう。私も似合わない。会社に入ってから、7年間、背広を着たことが数えるほどしかないからだろう。
 その背広を着こなせないおじさんも考古学者だった。文化庁の偉い人というのは殆どが考古学者、もしくは元考古学者なのだそうだ。やはりこの国では考古学の占める地位がとてつもなく高いのだ。
 さて、インタビューを終えると、リーマの休日となった。
 バタングランデ経由で来た我々にとって、首都リマはとんでもない大都会に見える。事実、人口八〇〇万人を擁するこの街は、堂々の大都会ではある。
 だが、問題はそういうことではなく、先進の大都会に見えることだ。
 あー、このビルって一〇階以上あるよ、すげーなー、うわーこの道、三車線もある。うっひゃあ、パソコンを売ってるよ、外人がいるよ(我々も含めてということか)、やっぱ都会はすげーよなあ、という感じ。
 私はその時代を知らないが、「ああ、上野駅」という歌のベースには、これと似た感慨があるのではなかろうか。
 現代の日本では、東京と地方の間には、若干の情報量の差と、若干の人口の差と、膨大な地価の差くらいしかない。
 どちらが進んでいて、どちらが富んでいて、そういったことを較べるのは全く虚しい限りだ。どこの県が日本で一番豊か、などという政府がとったアンケートがあったが、馬鹿馬鹿しい。
 結局、日本国に住む限りにおいては、どこでもほぼ同じだ。貧しい部分はだいたい日本共通に貧しい部分だし、豊かな部分もまた然りだ。
 首都と地方の差は限りなく縮まっている。いや、縮まっているどころか、今や地方の方があらゆる意味で豊かな部分が多い。東海道新幹線に乗って、窓の外を眺めていれば、それは一目瞭然だ。
 たとえば福岡市と東京の中心街を較べて、どこに差があるのかと思う。
 差はない。中心街はそうだ。更に言うと、差は住宅地にある。住宅地に行けば、むしろ首都東京は恥じ入るばかりだ。福岡に限らず、地方都市の新興住宅地の整備されてること、適当に綺麗なこと。そしてそこに住むのにかかるコストの安いこと、これは東京では有り得ない。
 いやいや、論旨が全くずれた。そうは言っても日本全国見渡して、まあ、だいたいどこも一緒よ、という話だったのだ。
 考えてみると、どこも同じよ、と言い切れない気分になってきたな。酔っ払っているのかも知れない。だがまあ、それでも同じよ、という話で進もう。ここでは違うのだ。そんな日本のレベルの問題ではなく。
 もしも、この国で、それぞれの県の豊かさ比較、なんてものをやらかしたりしたら、圧倒的にリマ。特別市リマ。それだけだ。
 バタングランデのエクトル氏の屋根のない家、時計すら無く、そもそもが電気水道ガス、全てが通っていない村。エクトル氏が我々と一緒にリマにやってきたら「おら腰抜かしただ」と言うであろう。
 でも、エクトル氏はリマに(ひょっとしたらチクラヨにも)行けるだけのお金など持ってやしない。
 全く違うのだ。この国の首都と地方は。
 日本にとっての仙台市くらいに相当するチクラヨ市にしてもそうだ。わかりやすい例で言うと、チクラヨの市場ではCDが全く出回っていない。全てがカセットテープだ。例の大音量のダンスミュージックもカセットだった。だが、リマではCD。CDに較べ、カセットのシェアは低い。そういうことだ。
 その首都リマの青空市場に行った。リーマの休日だからして。
 そこでミルースカに出会った。
 ミルースカとは、鳥の名前だ。私が名付けた。
 例のVEアキオ氏の「彼女」の名前だ。
 リマの青空市場には、鳥の部門があって(ただ、鳥屋が集まっているというだけだが)、そこで多数の小鳥が売られている。
 日本のように文鳥とか、セキセイインコとか、そういうのではなく、ここに集まる鳥たちは凄い。ワシントン条約はどこにあるのだ、というたまらない鳥も売られていたりする。
 一番凄かったのが、鷹の子供だ。
 鋭い目をした、肉食の猛禽類。世界的に数が減り、完全に保護が必要とされる、猛々しく、かつ美しい鳥だ。
 その美しい鳥の雛が、段ボール箱の中にうずくまっていた。
 その嘴はぐるっと下に曲がり、その眼光はあくまで鋭く、我々を射抜く野生を主張していた。
 ライオンの子も、虎の子も、ピューマの子も、ハイエナの子だって、猛々しい獣の子供は、常に、信じがたいほど可愛らしい。
 鷹の子もその例に漏れなかった。
 段ボール箱の隅にうずくまり、外界に戦いを挑もうとしているが如きその姿態が好ましかった。
 他にも鳥達はいっぱいいた。
 こちらにとっての雀にあたる緑色をした鳥が、篭の中にいっぱい詰め込まれてぎゃあぎゃあ鳴いていた。小さな鳩くらいの大きさで、バタングランデにもいっぱいいたオウムである。夕刻になると、ロロ神殿の上空を飛んでいた。そもそもがロロ神殿という名前の由来(ロロとはオウムの意味)だ。
 で、あろうことか、そのオウムを一羽、買ってしまった。前々から、大きな鳥が欲しかったのだ。で、さて、これをどうやって日本に持ち帰ろうか。
 売り子の言葉を信じると、卵が孵って、まだひと月にならないそうだ。
 ギャーとかギョーとか鳴く。足がまだ立たない。
 餌はこちらの玉蜀黍だ。日本にある甘い柔らかいものではなく、ペルー産の堅くて、味があまりない玉蜀黍。
 小さな篭を貰って、その中に彼女、もしくは彼(まだこの時点では雄雌の区別が分からない)を入れ、ホテルに持ち帰った。
 値段は一六〇〇円。
 義井氏は笑いながら、高い買い物だったね、と言った。
 ペルーではね、ということだ。確かに一六〇〇円という数字は、ペルーの労働者が一週間過ごせる金額ではある。
「ま、ワシントン条約で決められてる動物じゃないから、大丈夫だとは思うけどね。どうなるかは分からないけど、もしも空港で駄目だって言われたら、俺が、鳥屋にその鳥を返して来てやるから、安心したまえ。ま、一六〇〇円はその時は諦めるんだな」
 勿論、勿論。
 その可能性のための一六〇〇円なんて惜しくない。
 満足だった。ホテルに帰ると、ミルースカは私の手にとまって玉蜀黍を食べた。目が大きく、頭は真赤で身体は美しい緑色だ。何とか日本に連れて帰ろう。
 私は鳥に関しては少々詳しい。この鳥が、達磨インコかオカメインコの仲間だろうことは想像がつく。だが、あれらは東南アジアからオセアニアにかけて棲息するはずだ。
 色はやはり南米産のミドリオウムに似ている。だが、頭の赤色と、大きさが少々違う。南米のこの地域にはゴシキセイガイインコなどが棲息するはずだが、見た目が全然違う。
 シェラトンホテルに帰って、私はその晩、ずっとその鳥を見て過ごした。

*鳥は雌だった。で、当初決めたとおり、名前はミルースカとなった。日本に帰って、ペットショップで彼女の値段を聞くと、二〇万円くらいですかね、ということらしい。私も驚いた。
 
 リマはフォルクスワーゲンのビートルだらけである。
 ブラジル工場で生産する以前は、ペルーの工場で作られていたこともあって、その数は異常なほど多い。大凡のところ、リマ市内を走るクルマの半分がこのクルマであると思って間違いない。チクラヨもそういえば大方似たようなものだった。そして、二つともの町に共通して言えるのが、そのビートルカーがとてつもなく古いということだ。
 製造したのがいつなのか、とりあえずフォルクスワーゲンだなと、そのことだけが分かる、というレベルのものが少なくない。
 フェンダーがないビートルが多い。窓ガラスの代わりに透明ビニールを貼っているものも多い。パテだらけで、どこに金属部分があるのだという、つぎはぎだらけのものも多い。ごく甘い見方で言って、日本に持っていって商品価値を(かろうじてでも)持つだろうビートルが、全体の一割である。
 それでも走る。ドイツ製品が優秀なのか、ペルー人の物持ちがいいのか、恐らくはその両方であるが、前者の方が、割合が高いと思われる。何故ならば、同じ時期に生産したと見られるアメリカ車は、ビートルほどの数が生き残っていないからだ。
 元来が丈夫なクルマとして売り出されたビートルだったが、このリマの市街地を歩いてみると、それが掛け値なしに本当だったことが分かる。恐らくはこういう美点はフォルクスワーゲン社にポリシーとしてあり、ゴルフなどにも引き継がれているのだろう。こういう製品作りというのは本当に羨ましい心構えだと思う。本当のエコロジーというのはこのようなことを言うのかも知れない。何故ならば、買い換えの必要性がないということは、クルマの生産に費やされる膨大なエネルギーの損失を避けられるからだ。
 さて、リマの自動車のシェアを見た目の印象だけで判断すると、次のようになる。
 一位、上記のビートル。二位、七〇、八〇年式を中心とした日本車。三位、六〇年式を中心としたアメリカ車。そして、四位。最近の韓国車だ。
 フォルクスワーゲンを除くヨーロッパのクルマは殆どないに等しい。なぜだかシトローエンだけは時たま見かけたことがあったが例外と言ってよい。
 ヨーロッパ車と言えば、この国の気持ちの良い点の一つに、ベンツとBMWが非常に少ないことがあげられる。
 通常、この種の発展途上国にいくと、路上のクルマはだいたい、ベンツなどの高級ドイツ車と、ボロボロの中古日本車とに大分されるものだ。貧富の差というよりも、権力者と非権力者の差異が如実に出る。権力者はベンツ、BMWに乗り、非権力者の中の経済的にそれなりの成功を収めた連中が。中古の日本車に乗るのだ。
 中国などでもそうだ。彼の国の首都などは、クルマそのものは少ないくせに、その数少ないクルマの殆どがベンツか上海(北京政府が作る「高級車」。とんでもないハンドリングと途方もない燃費を誇るという。輸出は勿論ゼロ。初代クラウンを思い出していただきたい、という種類のクルマだそうだ。これは私は実際に乗ったことがないから、分からないが)という絶望的な状態だった。
 ところが、ペルーでベンツを見ることは滅多にない。一度、フジモリ大統領ご一行が、ベンツのS600L(ダイムラー・ベンツ社の最高級車)に乗っているのを見たきりである。ベンツには大統領しか乗らないのだ。それ以外の権力者たちが権力者にしては貧しいのか、それともベンツが嫌いなのか。
 だが、いずれにせよ、途上国にベンツが走り回っている一部のアジア諸国のような状態は異常である。ビートルが走り回る途上国の方が数段健全だ。思えば、ビートルはヒトラーの国民車構想が生んだクルマだった。ヒトラーはあのアウトバーンも作った。あらゆるところで狂っていたあのちょび髭の男も、ことクルマに関してだけは、健全だったのかも知れない。
 ビートルに限らず廃車寸前のぼろクルマが走り回るリマ市なのだが、その中で、ひときわ目立つ、一連の新車群がある。
 韓国車だ。特に大宇(デーウ)社のチコというクルマが多い。現代(ヒュンダイ)社のエクセルも多い。
 大宇のチコは、ダイハツ「ミラ」のノックダウンで、だから当然、軽自動車の規格である。ボロボロの巨大なアメ車が走るリマの町で、ひときわ小さく、ただでさえ出鱈目な交通マナーの中をちょこまかと動きまわっている。
 このチコが、ペルーで最も買い易い、つまり安い新車なのだ。
 テレビのコマーシャルを見ていると、チコがアマゾンのジャングルを走り回ったり、砂漠を疾走したりする。軽自動車なのにおいおい、と思うが、多くの国民にとって自動車が叶わぬ夢であるこの国では、これはこれで良いのだ。多分。一種の夢を売るCMなのだと思う。
 エクセルは、スターレットやコルサ、マーチなどに似た小型車だ。丸っこい形が一見して日本車と見間違う。ヘッドランプの間に貼られた現代のHマークもホンダのマークにそっくりだ。テレビコマーシャルでも「ヒュンデー」と叫んでいる。英語風に「ホンダ」というのにそっくり。これがタクシーなどによく使われている。
 だが乗ってみると、そんなに悪くない。内装も見たところ、日本車にそっくりの上質っぽい出来だし、エンジンの振動も音も多少はうるさいが、さほど気にはならない。乗っていると、クルマってこんなもんだよなと思わせる。
 これが同ランクの日本車の半額である。
 正直言って、この値段では、新車の日本車は太刀打ちが出来ないだろう。
 この国の人々にとってはカローラやファミリアなどの若干のタッチの良さ、ハンドリングの良さなどはさほど重要ではなかろう。よしんば重要であったとしても、半額である。同じ大きさの、同じようなクルマが。
 韓国車恐るべしである。北米マーケットで一敗地にまみれた韓国車は、新たなマーケットを見つけたのだ。
 街中の看板もTOYOTAやNISSANやHONDA、MAZDAよりもHYUNDAIやDAEWOO、KIAの方が大きくて、数も多い。
 街中を走る日本車は多いが、皆、懐かしいな、というものばかりだ。
 おっ、新車もあるじゃん、あれはトヨタかな、ホンダかな、なんて思っていると、実際は現代か大宇か起亜(キーア)である。
 リマ市内を走るクルマをシェアではなく、古い順に並べていくと、一番古いのは、年齢不詳の勿論ビートル、それに続いて60年くらいのシボレー、フォードやダッヂ、その次が日本車だ。そして最も新しいのが韓国車となる。
 戦後の世界自動車生産競争の流れがそのままという感じだ。
 世界的に言って、未だ韓国車の時代はやって来ていないし、それは随分、遠いかなとは思っていたが、それは実は目の前だということが、リマでは思い知らされる。

 95/7/25

 ロスアンジェルス国際空港。トランジット中。
 例の陰鬱な待合い室だ。もうバッテリーが駄目になった。画面が暗くなっている。

*これを書いているパソコンのこと

 麻酔から覚めたらしいミルースカが、鳴いた鳴いた。
 成田空港に着いて、出口で荷物と放送機材が出てくるのを待っていたら、向こうで、ギャーとかギョーとか例のでかい鳴き声がする。当たり前ながらミルースカだった。
 ヴァリグ航空のスチュワードが、これ何ですか、てな調子で鳥かごを手にぶら下げていて、私は「申し訳ない、どもども、単なる鳥っす」と言い、スチュワードは「ああ、これですか、例の副大臣のヤツは」てな顔をし、いやいやどもどもと、私は検疫の方に鳥かごをぶら下げ、向かった。
 検疫は簡単だった。書類を見て、係官はすぐにスタンプを押した。
 ミルースカの篭にはタグが着いており、そのタグに農林水産副大臣のサインが入っているのだ。もう、フリーパスなのだ。
 なぜ副大臣のサインが入っているのか、それは、本当に偶然の産物だった。
 前日、リマ国際空港を出る際に、ミルースカは、どうなるか分からないまま、ギャアギャア騒ぎながら、空港にいた。
 義井氏の調べではこういうことだった。
 この鳥は確かにワシントン条約に含まれていない。毎年、沢山の数が輸出されている。持ち帰ることに問題はないだろう。
 だが、持ち帰る際にこちらの農林水産省の許可がいる。その許可は何の問題もなく出るのだが、やっかいなことに、その許可が出るのに四日を要する。間に合わない。
 とのことだった。
 で、航空会社や税関には私の知り合いが多数いるから、まあ、任しとけって。何とかなるよ。ここはペルーだから。
 とまあ、そういうことになったのだ。
 義井氏は空港のカウンターに鳥篭を差し出し、いろいろと交渉をしてくれた。本来の仕事と関係ないのに、申し訳ないことである。
 その結果、ちょっとの間、ごちゃごちゃと言われたりしたのだが、偶然から実にあっさりと決着がついてしまった。
 そのカウンター前に、ペルー共和国農林水産省副大臣が通りかかったのだ。
 前から知り合いだった義井氏は「へーい、久しぶりだな、副大臣。元気かい?(違うかも知れぬ)」と話しかけ、副大臣は「おー、兄弟、その後どうだい、カミさんはどうしてる?(違うかも知れぬ)」と応じ、その結果、「何だそんなことか。OKOK、俺が許可するよ。サラサラサラ(サインする音)これで文句ないだろ(違うかも知れぬ)」となり、「アミーゴ、ありがとうよ。今度、寿司バーで一杯どうだい(違うかも知れぬ)」となったのだ。
 我がミルースカは、わずか一分半で、副大臣のお墨付きとなった。
 リマ国際空港はそのまま通過となり、成田空港での検疫すら、何の検査もなくパスとなった。いいのか、本当に。
 鳥に限らず、動物を輸送する際には、睡眠薬を注射し、騒がないようにしてから「動物室」というところに載せるのだそうだ。
 ともあれペルーから日本へ、地球の裏側までこの鳥はやってきた。

*東京に帰って三日経って、私は動物病院にミルースカを連れていった。変な病気は持っていないか、などを調べるためだ。
 文京区の病院は、綺麗な病院だった。
 病院の先生は「変な病気なんかは持っていないけど、この鳥さん、肺炎にかかってますよ。こりゃ、いかんですよ」と言った。
 結局二週間の入院となり、その二週間が過ぎて、出てきたら、有り難いことにピンピンしていた。
「玉蜀黍ばかりじゃ駄目ですよ。病院では、サツマイモのふかしたやつと、ヒジキの類、あと向日葵の種と、麻の実、そういうものを総合的に与えて、それでここまで元気にしたんですよ」と病院の人は言った。
 それはその通りだったのであろう。おかげでミルースカは元気を回復した。
 ミルースカが私の元で一番喜ぶ餌は、今のところ、茹でた大豆、つまり枝豆である。
 ついでに言うと、それからさらに時が経ち、現在、ミルースカは元気なままに、私の実家、東京葛飾にいる。成長するにつれ、雌だということが分かってきた。ミルースカという名前でちょうど良かったのだ。
 私の父親と母親が、ミルーちゃん、つまりミルースカを可愛がって、時々実家に電話をかけると、うちのミルーちゃんがどうしたのよ、という話題で三〇分が過ぎる。

 いつものことだが、日本に帰ってくるとたちまち日常が襲ってきて、あっという間に取り込まれてしまう。成田に着いて、高速道路を東京に向かう途中、日本の本質が一瞬、分かった。日本とはつまり、つるつるの道路をピカピカのクルマが走る国だ。
 何が本質なのだ。
 以後、およそ三〇分でそのことが当たり前になって、つい前日まであのペルーにいたのが嘘のようだ。
 ミルースカは元気だ。
 「スペースJ」のスタッフルームに連れていったら、皆が驚いていた。一体ペルーに何をしに行ったのだ、疋田ディレクターは、という驚きである。

*日本に帰ってきて、再びオウム真理教に関わることとなった。ペルーに行く前との若干の温度差を感じる。つまり一時期の熱病状態を脱したということだ。我が番組は「シリーズ・オウムを生んだ時代」と銘打って、麻原とオウム、信者を生んだ社会構造を読み解こうという時期に入っていた。一時間半の番組だから、勿論、オウム以外のネタも放送している。視聴率は大体一六から一八パーセントと落ちついてきた。
 私もシリーズ第三回からの担当に組み込まれた。シカンプロジェクト専属という、あの辞令のファクシミリは何だったのだ。

 一ヶ月間、シカンを忘れる。
 現地では日本電波ニュース社リマ支局の下野カメラマンが頑張っている。一週間に一度、リマからバタングランデに出かけていき、発掘の様子を押さえる。
 そして週に一度、その様子がファクシミリとビデオテープで送られてくる。相変わらず遅々として発掘は進まないとのことだ。
 だが、穴の深さを示す数字がファクシミリが来るに従って大きくなっていく。深さは間もなく一〇メートルを突破しようとしていた。だが、何も出ない。
 週に一度のペースで東京シカン会議を開く。
 出席者は小川部長と西野氏、それに私である。部長とプロデューサーとディレクター、それぞれが一人ずつ。つまり最小限度のスタッフ会議だ。もっとも現状はこれしかスタッフがいない。穴水女史は、アルバイトだから自宅待機である。それが少々残念。
 下野カメラマンは非常に熱心なカメラマンで、VTRを回し始めると、とめどがない。ひき、寄り(ロングとクローズアップ)併せてしつこくしつこくカメラをまわしている。
 後の報告で、教授が腰痛で倒れたとのVTRがあった。教授はバタングランデの宿舎で鍼を打っていた。その時も、下野氏はしつこくしつこく、舐めるようにカメラを回し続けていた。教授はちょっと厭そうだった。
 ビデオテープはペルーから日本に帰る旅行者や、アンデスの研究者達に託されて、TBSまで運ばれてきた。郵送すると一週間以上かかってしまうから、なるだけ早く、の道を選んだのだ。
 小川部長、西野P、私は、ビデオが送られてくる度に集まって、話し合った。
 発掘の穴は、ビデオが送られてくる度に大きくなっていく。
 四本目のテープと一緒に、下野氏からの要請があった。
「ショートズームレンズを使用したいので、次回誰かが派遣される際に持ってきていただきたい」
 何となれば、通常のレンズでは発掘の穴の全景が撮れなくなったということなのだ。ワイドレンズ(ショートズームとは「ワイドから標準まで」というレンズ)が必要なほど、穴は大きくなってきたのだ。
 五度目のテープには島田教授のインタビューが収められていた。
「この側面に並んだ小さな穴は、古代の人々がこの穴を掘ったときの足がかりです。ここには古代の道具で掘った跡があります。ここは古代の墓の切り口といってよい部分です。
 つまり、我々はようやく、墓を探し当てたのです。
 まだはっきりしたことは言えませんが、東の墓と同じ、もしくはそれ以上の規模を持っているかも知れません」
 ついに出たのだ。
 発掘開始から、二カ月以上が経っていた。
 さあ、出動だ、と私は思ったが、意外なことに、小川、西野両氏は冷静である。教授の次の言葉を待っているのだ。教授のインタビューには続きがあった。
「何が出るかは分かりませんが、これからは、精密な記録をしながらの発掘となるので、ペースは落ちるでしょう」
「やっとここまで来たな」と小川部長。
「ここまでは当たり前やからね」と西野氏。
「出るかね」
「まだ分からんでしょう」
「さ、行く準備ですか、わはは」これは私である。小川部長が答える。
「まだだ。まだ、(金もしくはそれに準ずる何かが)出るという保証はない」
「でも今行かないと、出た、という瞬間が撮れませんよ。下野氏は一週間に一度しか通ってないわけだし」
「わしも、そう思うが、、」西野氏である。
「だがな、ベストタイミングは、金製品が出る直前だ。問題は費用対効果なんだよ」
「そんなこと言ったって、この墓、これからどうなるか、さっぱり分からないじゃないですか」
「そうやなあ」
 九一年当時のディレクターでもある西野氏の話でも、確かにこの墓は東の墓とは違う部分が多すぎた。そもそもが、大きすぎるのだ。
 現在までに分かった限りでも、西の墓の大きさは少なくとも五メートル四方以上はある。東の墓が、三メートル四方の縦に細長い墓だっただけに、今回のこの大きさは予想外だった。VTRの中の島田教授もそう語っていた。
 東の墓の倍以上の面積を持つ墓に我々の期待は少なからず高まっていたのも事実である。
 しかし、小川部長はまだ慎重だった。
「少なくとも次の報告まで待とう」
 そのココロは、やはり予算だった。現地での滞在日数が一週間増えるだけで、一〇〇万かける幾つ単位の金が消えていく。おまけに、現在のこの状況でも、まだ、放送の予定は立っていない。
 部長がそう言うのは尤もだった。
 我々三人は、三様に「発掘は金のみにあらず、たとえ何が出ようと、西の墓は取材する価値がある」との考えを持っていたことは間違いない。
 だが、金が出ないと番組自体が成立しないことも容易に想像が出来た。
「待とか」西野氏が言った。
「そうですか」私も言った。
 次の一週間が経ち、小川部長の判断は正しかった。次の一週間は、つまるところ、記録の一週間であって、何ら、事態に変化はなかったのである。おまけに、教授が腰痛で倒れたのもこの週だった。
「変わらんな」
「まだだな」
 私は無言だ。
 そして、次の週。
 この週の下野氏からの報告は、カメラマンがカメラを担ぎながらレポートするという異様なものだった。興奮気味の下野氏が自らの言葉にあわせてカメラを振り回していた。
 要約すると次の通りだ。
「(下野カメラマンレポート)墓の底のようなものにたどり着きました。大きいです。ここまでで、六メートル四方はあります。そして、その底には、布、布です。沢山布が敷き詰められています。
 墓の底に立って壁を見ると、横穴があります。横穴からは、既に二体の人骨が発見されました。先生の話では、若い女性ではないかとのことです。横穴は今のところ三つ。ですが、まだ沢山あると思われます。
 土器も沢山出てきています。シカンの神が描いてあります。
 先生、どういうことでしょう」
 興奮気味に聞く下野氏に、教授も幾分は興奮気味に、次のように答える。カメラがぐるぐるぶん回る。ちょっと目が回る。
「そうですね、この時点で、地上から一三メートルです。底のようなものにたどり着きました。第一段階の底と言うべきものです。
 今のところ、東の墓の謎を解くめぼしい発掘品はありません。
 ですが、私の注目しているのはこの部分です(墓の底に立ち、底の中央部をさらに掘っている部分を指さす)。
 ここに三メートル四方程度の、掘り跡があります。ずっと下方に続いているようです。
 つまり、この西の墓は、二重構造になっていたわけです。この墓の核心は、恐らく、この下に多分あると思われる『中央墓室』にこそあるのでしょう」
 二重構造の墓。それは東の墓の構造とは、全く違うものだった。
 東の墓はただひたすら、まっすぐに掘られ、そして、その一番底に、とんでもない量の黄金製品と、逆さの遺体を宿していたのだ。
 だが、この墓は違う。「まだ何も出ていない(教授)」とは言え、VTRで見る限り、その様子はとてつもなく巨大な墓のそれだった。そして、それは規模においても、その複雑さにおいても、東の墓を凌いでいたのだ。
 教授は「私の第一の仮説、墓の構造は東と対になっているというものは早くも崩れました」と続けていた。だが、崩れましたと言いながら、その表情は嬉しそうに見えた。
 西野氏が「よし、行くか」と言った。
 小川部長も言った。
「準備だな、疋田。取材ヴィザはまだ有効か?」
 取材ヴィザの有効期限は二カ月だから、当然切れている。
「明日、書類を書け。書いたらすぐに大使館に行って、、、、ああ、ヴァリグ(直行便を持つ航空会社)は月曜日発か。
 うーん、けど別に直行便でなくても良かろう。何でもいいから、乗り継いで、とにかく、明後日には日本を発て」
 もはや、金が出る出ないなどどうでも良い(というわけでもなかろうが)という様子だ。
 話は急だが、待ってました、である。
「ただし、カメラは無しだ。助手も無し。俺が日本電波ニュースと交渉する。下野君をそのまま使え。日本から行くのはお前一人だ」
「ショートズームレンズとピンマイクとワイヤレスを忘れるな」これは西野氏。
 で、私は慌ただしく準備に入った。前回と同じ人間(つまり私のこと)なので、今回の作業はスムーズだった。穴水女史も急遽スタッフルームに招聘された。
 西野氏は、企画書を書き始めた。
 歴史を変える考古学のロマン、前回よりも大きく複雑な墓の発見、日本人考古学者の奮闘、そして、黄金が出る可能性もきちんと匂わせている。
 提出先は勿論、編成局である。

*その後、第二期の取材中に、プロデューサー西野氏は「スペースJ」での特集と、日曜日の二時間特番と、その後の期日未定のゴールデンタイム特番をもぎ取った。
 我がシカン発掘の取材は、ここで初めて予算が付くことになったのだ。

 私は、ばたばたと「そういうわけで又してもシカンに行くことになりました」とスペースJ方面に申し述べ、オウム関連の取材を引き継ぎ、また、あるものはやりっ放しにし(申し訳ない)、そして、今回は一二〇キロの機材を一人で運びながら、成田空港へと向かったのである。
 下野氏のもとには、もうビデオテープが無かった。
 だから今回の一二〇キロの機材の内訳には、ビデオの空テープ七〇本が入る。その他にレンズ、マイク関連、親指カメラ(小さな掘り跡を覗くカメラ)、電源などである。マイアミでの乗り換えの際に、それぞれがバラバラになり、かつ、かの空港ではキャスターが小さくて一つに載り切らず、一人で運んでいて、難儀した。
 そのひとつが紛失の危機に遭った。
 正直言って、泣きそうな気分になった。


第二章 黄金出る、そして、第一回目の放送まで


 ここから再び、例によってファクシミリである。色々と説明を付け加えざるを得なかった第一章に較べ、こちらは、殆どが当時のファクシミリそのままである。
 図が多くなる。掲載した図は当時、ガルサホテルの暗い電球の下で描いたものだ。机が古く、木目でガタガタだったので、やはり今見ると、若干粗い。けれども、あの当時の臨場感と感動をもって、今、描くのは不可能なので、敢えてそのまま用いることにした。

 95/10/24

小川様、西野様、穴水様

 リマの空港に無事、朝の四時に着きましたら、義井氏と下野氏が待っていてくれまして、さあ、ホテルへ行こうと、そのまま北へ八〇〇キロも陸路走ってしまい、現在チクラヨ市のガルサホテルです。東京より六〇時間弱ぶっ続けで移動です。疲労困憊しました。
 ガルサホテルは前回も泊まったホテルで、見慣れた風景に、なんだか数日前に来たなあという気分におちいっています。
 すべてはつつがなく予定通りに進んでおります。ご安心を。
 東京から持ち込んだ風邪が若干悪化しまして、さらに他の薬は全部持ってきたにも関わらず、風邪薬だけを忘れてしまい、チクラヨでペルー製の風邪薬を買いました。

 遂に又、とうとうペルーに来てしまった。
 今回は一人だ。予算が逼迫してきたのだ、と小川部長は言った。カメラマンは下野氏。サウンドマンや助手は無し。
 こうした取材、特に日本の地方での取材に多いが、現地プロダクションのスタッフと一緒に仕事をすることがある。大抵はそちらの方が取材費用が安く上がる。
 現地スタッフの方がその土地のことをよく知っているという利点もある。だが、同じVTR、それも長いものを作ろうとするときは、最初から流れを知っているカメラマン、つまり東京から連れていった方が効率的に仕事が進むことも多い。それぞれに長短がある。
 今回の場合、下野氏は理想的だと思う。両方の良いところを兼ね備えている。ただし、サウンドマン無し。これが辛い。ハンドマイク、ガンマイクを問わず、私が持つことが多くなるのだろうが、ミキサーなどは私はいじれない。サウンドマンは一種名人芸的な仕事であるから、そもそもが私などがいきなりやってやれるものではないのだ。この辺、少々不安ではある。
 リマ空港で義井氏と下野氏に会って、すぐにクルマでチクラヨへ八〇〇キロの道のりを来た。リマで一泊する余裕は無し。現在、現地時刻の二二時である。
 今回はアメリカン航空の乗り継ぎでやってきたから、シアトルとマイアミでたまらない待ち時間をそれぞれ五時間少々過ごし、かなり疲労困憊している。おまけに日本から持ってきた風邪が悪化して、かなり苦しいところだ。
 宿泊は前回と同じくガルサホテルである。例の白鷺ホテルだ。村上春樹の小説のようだ。あれはイルカホテルだったか、ともあれ私は好きだ。
 見慣れた風景に触れると、まるでつい数日前にはここにいたような気分になる。
 明日からが勝負なのだが、とても立ち向かう体力は残されていないので、今日はなるだけ早く寝ることにする。速やかに。

 95/10/25

 小川様、西野様、穴水様

 発掘現場はとてつもなく巨大な穴と化していました。穴の上に立っていると頭がくらくらして、飛び降りたくなります。飛び降りたら当然死んでしまいます。
 まずは教授の解説と、トレンチの全体像をご説明いたしましょう。
 トレンチの全体像は大雑把に申し上げて、図1の通りです。現在、南北一〇メートル、東西六メートルに及ぶ巨大な墓の南の壁を探すべく、トレンチを右に広げています。
 横穴は現在のところ確認されているのは六つあります。(図2)南の壁がまだ出ていないためにあとの二つが確認されていませんが、恐らくそれは出現するであろうとのことです。
 横穴の中で、三つからは遺体が発掘されました。北と西のそれぞれは年齢不詳、恐らくは若い女性と思われる遺体です。副葬品として土器などが発見されています。が、高価な副葬品などは一切無し。
 注目すべきなのは西の6番と名付けられた横穴からの遺体です。(図3)
 出た遺体は年齢一〇〜一五歳の男女不詳のもので、顔には朱が塗られていました。更に、その顔はその下の、およそ三メートル三メートルの墓室の底を睨むかのように向けられていました。
 ただし副葬品は一切無しであります。身分の高さを示す朱と副葬品無しという事実が食い違いを見せております。
 この横穴から三×三の墓室までから、奇妙な織物が続いています。(図4)
 織物というのは正確にはアシの繊維を織っただけの「むしろ」のようなものです。フンコと呼ばれるそうです。このフンコは何枚も幾層にも重ねられており、横穴6から三×三墓室に被さるように垂らされています。三×三の墓室の天井から現れたアルガロボの木は、どうやらそのフンコを支えるためのもののようです。
 二六日にはニューヨークから梶谷氏がやってきます。彼女は織物復元の専門家のおばさんだそうで、フンコの解析が期待されます。
 三×三の墓室の掘削は、フンコの解析が済み、アルガロボを取り除いたあと、いよいよ行われます。先生の目論見では数日中、とのことでした。数日中、というのが二日なのか、九日なのかははっきりしませんが。
 何が出るのかは全く分かりません。
 今回は私のバッティング(の打率)は非常に悪い、と教授は何度も繰り返していました。予想が次々と覆されることについてのことです。
 今までの墓に比べ、今回の発掘は珍しいことが非常に多いそうです。
 まず、墓が長方形であること(一〇メートル×六メートル)。
 墓が二つのレベルに分かれていること(一〇×六と三×三)。
 そして何よりもこれだけ巨大な墓を掘ったにも関わらず、めぼしい副葬品がほとんどないことです。
 墓の場所は前回の発掘とほぼ対応しているといいます。土器などから年代もほぼ同じということです。
 今から一週間から一〇日間が正念場だと思います。何が出ると思いますか。

 麻原裁判はどうなりましたか。スペースJの視聴率はいかほどでしたか。裁判については新聞のコピーをファクシミリで送っていただければ幸いと思います。
 こちらからのCGの資料などはまだおくるべき段階ではないように思います。
 それでは。
 次回からはまた前回のごとく日記風にさせていただきます。ですます調は書き難いです。
 
 95/10/26

小川様、西野様、穴水様

 さてさて、小川さん、西野さんによる、疋田派遣は時期的に大正解だったと言えるでしょう。発掘作業は今まさにクライマックスにさしかかろうとしています。
 島田教授も夏を前に地下水が増えるのを心配して、発掘を出来る限り急ごうとしています。教授によれば中央墓室の全体像が判明するのは来週中だそうです。以前には聞かれなかった口調で断言しています。
 以下、最初の方は下らないですが、熟読下さい。

 巨大になってしまったトレンチと向き合って二日目である。今日の前日、つまり昨日は疲れた。このトレンチと対峙しているだけで頭はくらくらしてくるし、咳は出るし、くしゃみは出るしで、もう大変な騒ぎなのである。
 その原因の一つは日本から持ち込んできた風邪、二つ目は異常なまでの砂埃である。一つ目に関しては、ペルー製の風邪薬を飲んだら、随分と治った。日本のマイルドな売薬と違ってこちらのはハードなのだ。カプセルの青色の毒々しさが如実にそれを物語っている。おまけに、大きさが日本のものと比べてかなりでかい。これで効かなかったら、そちらの方が変というものだ。だから、風邪に関しては今日は昨日に比べて楽であった。
 ただ、二つ目の砂埃については、如何とも仕様がない。これだけ大きなトレンチを毎日二六人もの労働者がシャベルで引っかき回していれば当然なのである。機材を砂埃から守るために下野氏も色々と苦労をしている。カメラには砂埃避けの粘着テープ類がベタベタ貼られてある。テープの交換もトレンチの中ではしない。
 前回来たときが真冬だったのに較べ、現在は春から初夏にかけてといったところだ。だが、日差しはきついものの、日陰に入るとさして暑くない。夜などは寒いほどだ。気温は大まかなところ前回と変わらない。
 だが、確実に違うのが、蜂の数だ。ブウンと凶悪な羽音をたてて、トレンチの最も下、つまり地上より一四メートル地下に蜂どもが集まる。ヒッチコック並である。
 蜂避けのために置いてある水を張った皿には、文字どおり数え切れないほどの蜂が集合し、トレンチの上、一四メートル離れたところから見下ろしても、その皿の上部はグレーに見えるほどだ。放送終了後のテレビの画面(いわゆる砂嵐)に似ている。
 つまり、これが夏なのだ。
 その蜂どもが、汗っかきの私に襲いかかる。今日は五カ所刺された。
 暑い日差しの中で「ジガッ」と刺されると頭に血が上る。五回目にして、その地が沸騰点に達した。
 復讐を誓った私はオウム真理教的毒物作戦に出ることにした。
 すなわち、皿の中にタバコの葉っぱを投入するのである。皿の中に濃厚なニコチン酸が充満した。
 効果はてきめんである。本日どう少なく見ても私は一五〇匹の蜂どもを殺戮した。鈎十字賞ものである。
 だが、蜂どもは大編隊を組んで、次から次からやってきて、少しも減らない。私のタバコはいくらあっても足りない。タバコ代に領収書を貰って、小川部長に請求するやも知れぬ。
 しかし問題は実は蜂だけではない。今日は犬にも噛まれた。近くの民家に放し飼いの猛犬がいるのだ。脇腹に強い衝撃を受け、牙は服の下には達しなかったものの、大きな蚯蚓張れと擦過傷が出来た。今でも痛い。全くペルーというところは夏になるととんでもないところになるのだ。

 さて、発掘の現状であるが、本日は実に画期的な日であると言ってよい。
 三メートルかける三メートルの中央墓室に掛けられた織物様のものの全容が分かってきた。
 ベースになっている織物はきめの細かい木綿の布のようなものである。素材はまだはっきりとは分からない。この織物は布のように折れ曲がるもので、中央墓室の壁に沿って広く敷き詰められているようだ(図1)。
 その上に笹か竹のような堅い繊維で織られた堅い織物、というより竹を編んだようなものが屹立している(図2)。これは折れ曲がらない。注目すべきは、この竹の織物が横穴6の正面でV字に組まれていることだ。これが何を意味するのかは分からないが、横穴6の中にいた遺体が睨んでいた墓の底のほぼ真上に位置する。中央墓室の天井に位置しているであろうアルガロボの木材は、どうやらこの竹を支えていたもののようだ。なぜならば図1の織物はこのアルガロボの木の下まで達しているとの目算が強いからである。
 この竹を組んだような織物の上の一部には絵が描かれていた。それがなんなのかは不明だが、耳飾りの文様と似ている(図3)。
 さて、横穴6の遺体と、V字を結ぶ直線上の向かい側に奇妙なものが見られた(図4)。
 以前から織物の上にトゥンバガのかけらは少々発見されてはいたのだが、この奇妙なものはかけらとは呼びがたい。しかも多くのトゥンバガが銅の腐食により緑青の緑色を見せていたのに対し、これは所々かなりの面積で金色に輝いている。
 以下、島田教授と私の会話である。

(やたらとその物体の大きさや深さを調べる教授に対し)
疋田「先生、これ何ですか」
島田教授「そうですね、織物の上にトゥンバガが現れたということです」 
「光ってますね」
「そうですね」
「他のものは緑色でしたね」
「そうでしたね」
「これはひょっとして」
(義井氏、茶々を入れる)
義井氏「疋田君の今日のファクスに書くことが出来たな」
(疋田、義井氏に)
「特報!遂に黄金発見さる!というところですか」
(島田教授、笑うとも困惑するともつかずに)
「そういうことを言うから言いたくないんだよ」
疋「東京にはオフレコと言うことですか?」
島「・・・・」
「金色ですよね」
「トゥンバガです」
「ただのトゥンバガにしては、、、(何だか丁寧に調査しているのではないですか)」
「このトゥンバガは単なる板というより、何らかの細工がされていると私は考えているのです」
「位置的には、、、」
「横穴6とV字を結ぶ中央線上にあります。何らかの意味は確実にあると考えています」
「ということは高価、といいますか、価値あるもの、ということでしょうか」
「まだ分かりません」

 この物体が発見されたのは今日の午後三時過ぎであったので、間もなく調査は打ち切られた。
 だが教授は調査打ち切り後、その物体に砂を掛け、新聞紙で覆い、さらにまわりの土くれなどを被せ、念入りに隠蔽工作をした(図5)。なぜだ。なーぜーだ。
 さらにトレンチから出てきた後の教授はやたらに上機嫌であった。なぜだ。なーぜーだ。
 まだ分からない。教授の言うところによると今回は打率が悪いそうだから、またしても何らかの錯誤であることは充分あり得る。
 だが、私はこの発掘作業取材の中で初めて金属光沢を見たのである。
 一〇〇〇年もの間、地下水の通る中で、水その他のミネラルにさらされつつ、なお金属光沢を保ち続ける物質とは。

 さて、今日の午後になって、繊維解析の専門家、ニューヨークメトロポリタン美術館の梶谷おば(あ)さんが現れた。
 いかにもニューヨークを舞台にしたハリウッド映画に出てきそうな白髪の東洋人おばさんだ。
 映画の冒頭で、高層ビルのエレベーターに閉じこめられそうだ。おばさんはきっと34階にある会計事務所の女性所長の役である。若いときは恐らくは美人だったろうと思われる。
 本格的な解析作業は明日からである。
 私は多分、本当によいときに来たのだろう。
 発掘は今まさに間違いなく佳境に入っている。

 95/10/27

スペースJ AD諸君へ

 お疲れさまです。お元気ですか。
 麻原裁判は実にたまらない結果になったようで同情に堪えません。日本シリーズも最悪の結果だったようですね。
 さて、お願いがあります。以下のファクシミリをコピーし、外信部、小川部長席と報道特集、穴水女史の席に届けていただきたいのと、同じものをニュースの森、西野氏の自宅に至急、ファクシミリで再送していただきたいのです。
 もともとペルーの通信事情は大変に悪かったのですが、私が泊まっているホテルの、ファクシミリを送ることの出来る女性事務員が休んでしまい、到底、別の電話番号へ何枚も送れる状態ではないのです。
 ここのファクシミリは、@一通信につき一枚しか送れない。A通信先のファクシミリ受信音にシンクロさせてタイミングよくスタートボタンを押さないと送信できない、というとてつもない特質を持っています。
 特にAは実にとんでもない話で、ファクシミリを送るのに名人芸のような技術が必要となります。私のファクシミリ成功率はおおよそ二〇パーセント前後です。午前二時頃にこれをやろうとして、私は気が狂いそうになっています。
 というわけでよろしくお願いします。
 西野氏のファクシミリの番号は、電話と兼用で 3944-****だそうです。
    ペルー、チクラヨ市にて  疋田拝

 小川様、西野様、穴水様

 小川さん、少々大げさです。私も西野さんと同じく小さな金の破片が出てきたに過ぎない、というペシミスティックな予想をまだ捨てられません。
 前回ご報告した光る奇妙な物体は、だいたい手のひら大で、光る部分は四カ所。いずれも一センチから二センチ四方というごく狭い範囲です。他の部分は緑青に覆われているか、土をかぶっています。
 この大がかりな墓にこれまでのところ殆どこれといった副葬品がないことから、埋葬時に権力者失脚などの事件が起こるなど、何らかの理由で、墓は掘ったものの投げ出されてしまったのではないか、などとも考えてしまいます。
 小さな金の破片は単に忘れ物だったのかも知れない、この墓からはこれ以上何のめぼしいものも出てこないのかも知れない、などの悲観的観測も生まれてきます。
 今回、疋田は意外に慎重、かつ冷静です。
 なあんてことを言いながら、本日の発掘も大筋、喜ばしいものとなっています。お読み下さい。

 島田教授は上機嫌である。と義井氏は言う。口数が多い。よく笑う。以前はこんなことはなかったのだそうだ。
 本日の作業はひたすら中央墓室の繊維質、トゥンバガ、その他を出現せしめる作業だった。歯医者の道具を用いて、こびりついた土を入念にこそげ落とし、砂を払う。午後1時までには木綿様の繊維質、笹か竹で編まれた菰のようなもの、繊維質の上に現れるトゥンバガなどが大方あらわになった。
 土が払われた一〇×六の墓室の底は、遠目で見るとまるでコンクリートで出来ているかのようである。中央墓室の底や壁も同様だ。その上に化石化した菰のようなものが、オブジェ然としてある。土に含まれるミネラルの影響で日に当たると青色に見える。赤く見えたり、黄色に見える部分もある。
 美しい。墓室全体がスペインの伝統家屋の中庭のようだ。横穴が地下室にいたる通路のように見える(図1)。
 墓室を掃除させると、教授は墓の上部に登り、写真を撮った。
 念入りであった。何故ならば、写真を撮り、サンプルとして一部を取り出すと、あとは菰部分や支え木の部分を壊し、いよいよ中央墓室の底を掘ることになるからである。
 それは月曜日からの作業となる。
 さて、陽気な島田教授と疋田ディレクターとの会話である。

(教授、北側の中央墓室ぎわの床(図1の*部分)を指さして)
教授「疋田さん、これ何だか分かりますか」
疋田「土の塊ですね。緑の縞があるから銅を含んでるんでしょう」
(教授、その塊の横を指さし)
教授「違います。こっちですよ」
(そこには土にまみれた緑色の小さな板のようなもの(図2)があった)
疋田「銅の板ですか」
(疋田、銅ではつまらんといった風情)
教授「それ金ですよ」
「えっ」
「持ってみてご覧なさい。重いから」
「あ、ほんと。重いです」
「でしょ」
「何でこんなところに」
「気づかなかったでしょ。前からあるんです」
「え?置きっぱなしで?」
「そう。土を被せていたのです」
「不用心じゃないですか」
「でも疋田さん、気づかなかったでしょ」
「それはそうですが。あれ、何ですか、出てるんじゃないですか」
(教授にやにや笑う。)
義井氏「疋田君、島田さんはまだ隠しているかも知れないよ(などと訳知りに言うが、実は義井氏も知らない)」
疋田「そうなんですか?」
教授「疋田さんは前回の発掘を知らないから、これくらいの金でも驚きでしょう」
「それはそうですけど」
「これくらいでは(まだ金などとは呼べないよ)」
「先生、本当は他にも出てるんじゃないですか」
「さあ、どうでしょう」
「ということは」
「・・・」
 ここで会話は途切れる。
 教授の様子は 
@実はもっと金は出てきている(もしくは何らかの出てくる確信を持っている)のだが、あくまでとぼけている。
A出てきた金はまだ二つの小さなものだけ。今後の見通しも立っていない。何とも言えない。
 どちらかである。全く分からない。西野氏の言うようにAである可能性は高いと思われる。
 だが、見つかったものが昨日は一つ、今日は二つである。墓室は墓室然としてきた。教授の機嫌は良い。

 金の板についてのロレンス氏(ロンドン王立博物館修復官)と疋田との会話。実際は英語だったから、ほんとにこのように会話されてたかは分からない。私はそうであると信じる。
疋田「これ、どんなものなんですか」
ロレンス「他のトゥンバガとは明らかに違うね。金と銀の含有率が高いんだ」
疋田「どれくらい含まれていると、、」
「分析してみないと分からないが、若干白っぽいところを見ると銀の含有率が高いと思うね」
「金は?」
「勿論含まれている。銅もだ。だが、本当に注目するべきはここだと思う。この断面を見てごらん、何か大きな刃物ですぱっと切ったような気がしないかい」
「そう言われればそうですね」
「ほら、こちらの断面もそうだ。これは恐らく大きなトゥンバガを小さく切ったものなんだよ」
「じゃあ、これと同じ様なものが他にもたくさん出ると」
「そう思っている」
「例えばここの下を掘ってみると、こういう破片がざくざくと出るかも知れないと言うことですか」
「私はそう願っているよ」

 なぜフレンドリーな翻訳調になってしまうのだろう。私は身ぶり手振りのたまらない英語を駆使していたのだが、恐らくは上記のような会話がなされたことだと思う。

 敷き詰められたしなやかな材質の繊維はほぼ木綿であろうと梶谷氏は言った。二つほど絵が描かれたものがある(図3)。
 いずれにせよ、発掘の太刀持ち、露払いは出現したと言ってよい。
 あとは一メートル下から横綱が登場するかどうかだ。
 
 95/10/28

 休みだった。
 今日したこと。町で昼飯を食べた。プール際に寝転がって将棋の本を読んだ。構成案を書いてみた。
 スペイン語の勉強をちょっとした。島田教授との食事会があった。コンピューター相手に将棋をかなりした。西野氏と電話でかなり喋った。
 以上。 
 
 95/10/29

 発掘は今日も休みだ。
 クントゥルワシという三〇〇〇メートル近い高原にある三〇〇〇年前の遺跡に行った。日本人考古学者大貫教授の発掘である。ペルーと日本人との関係は、やはり深いと言えるのかも知れない。
 カハマルカの近辺だったので、チクラヨからはクルマでかなりある。往復四六〇キロかかった。道々見える光景は、遥かなる砂漠だ。もしくは高原にいたる砂漠だ。
 カメラに撮ろうとしたが、ファインダーの中に到底収まりきれない。

 95/10/30

小川様、西野様、穴水様

 疲れました。蜂との仁義なき闘いはまだまだ続いています。教授は依然上機嫌ですが、昨日、開けっ放しのマンホールに足を突っ込んでしまい足首を挫いてしまいました。教授は左の足に包帯を巻いています。
「小川さんにはまだ言えないこともあるんだよ」てなことをまだうそぶいています。

 日本時間では、もう一〇月も終わりである。
 今年は早かった。私の一年は震災とオウムとシカンに尽きてしまった。日本にある私のクルマは明日で車検が切れる。帰ったらすぐにいすゞのディーラーに持って行かなくてはならぬ(私のクルマは今はもう絶版になってしまった街の遊撃手いすゞジェミニだ)。必然的にクルマは一〇年目に突入である。クルマだけではない。私ももうじき二九歳になってしまう。
 脱力。
 さて、本日の発掘は黄金関連ではこれといった発展はなかった。基本的には竹の繊維を破壊し中央墓室をあらわにする作業を進めたというところだ。
 注目ポイントをいくつか上げる。
 まずは墓の縁の木綿様の繊維を明らかにする途中で、中央墓室のすぐ側に別の小さな穴が二つ見つかった(図1)。
 教授によれば、この二つ以外にも対角線上にもう二つ見つかるだろうとのことだ。墓の構造がますます見えてくる。
 さらに、その小さな穴にいたる木綿様繊維は小さな墓にいたる前に地下に姿を消す(図2)。まるで何かを包むかのようにである。梶谷おばさんは「この布が何かを包んでいるのよ。島田さんは何も言わないけどね」と言う。おばさんも結構憶測の多い人だから、本当かどうかは分からない。だが、これがもし何らかの箱を、宝箱を包んでいるとするならば、これは面白いことになる。
 竹の繊維を取り出す過程で、墓の隅っこから小さな土器が見つかった(図3)。クリソーレスと呼ばれるもので、墓の入り口のコーナーにはよく見られるそうである。これは何を意味するか。「盗掘者に荒らされていない」ことを意味する。教授は、ここに至って、盗掘者について「もう我々の掘っているところに盗掘者の影響はない」と断言した。中央墓室の東側についてもそうだということだ。
 現在、墓の天井とされるアルガロボの木から地下三〇センチまで掘った。あと一メートルが勝負だそうだ。

 95/10/31

 ぼおっと発掘を眺めていると色々なことを思い出します。
 蜂をたくさん殺していると、かつて自分の前世が蜂だったことを思い出してしまいました。

 またしても一日予定がずれて、竹の繊維を完全に取り除くのは明日に延ばされた。明日はいよいよ中央墓室の底面を掘る。その前に、教授がまたもや念入りに写真を撮る。予定はあくまで予定でしかなく、明日のことで確かなことは、蜂たちが猛烈に姿を現すことだけだ。
 本日分かったこと。
 中央墓室北東部縁の直径八〇センチ程度の小さな穴は、中央墓室と同じように木綿様の布で覆われている。さらにその中央付近二センチくらい下方に人骨が確認された。男女の別、年齢など詳しいことはまだ分からない。
 一〇×六墓室の北西隅に認められる木綿用の布の上部にトゥンバガとおぼしき塊が三〇×一五センチくらいの規模で現れた。所々に金の光沢あり。
 中央墓室底中央よりやや西よりの部分からリャマの足が発見された。墓の主人を埋める際にはよく行われることだそうである。
 だいたいこのようなところ。
 つまり、今日は状況はあまり進展しなかったということだ。その主な理由は、例えば北東部の穴に人骨が発見されたときなどに、教授が念入りに図を描いたりするからである。重要度、そして各々の発見により教授の予測がどのように変化するのか、などは分からない。というよりも話してくれない。
 私に話す情報がファクシミリによって小川部長に筒抜けなのを知り、「小川部長をいかにやきもきさせるか」が、どうやら教授の一番の懸案事項になっているようなのだ。

 ガルサホテルには三羽の鳥がいる。
 一羽は孔雀。見事である。放し飼いで庭を歩き回っている。
 二羽目は金剛インコという赤と青と黄色の段だら模様の目つきの鋭い体長一メートル前後もあろうかという、何ともはや可愛らしくないインコである。嘴の力は強い。何気なく差し出した私のスペイン語のテキストは、背の部分が真っ二つになった。
 三羽目は「コバタン」という種類によく似た緑色の鸚鵡だ。体長四〇センチ前後。理想的な鸚鵡である。欲しい。連れて帰りたい。

95/11/1

 谷プロデューサー殿

 疋田の勤務状況は次のようなものであります。

 一〇月二四日(現地時刻)
 午前四時リマ空港着。そのままクルマでチクラヨ市に移動、一八時チクラヨ着。二二時前後まで島田教授その他と打ち合わせ兼夕食などもあり。

 一〇月二五日
 午前七時より発掘現場取材。午後七時ホテル着。一時間半程度東京へのレポート。

 一〇月二六日、二七日
 二五日と同じ。

*以下、略

 以上です。つまり疋田は仕事ばかりしています。

*谷プロデューサーとは、私が所属する特別報道センターの直属の上司だ。「スペースJ」のプロデューサーである。私の勤務管理は、この部長が行う。だが、私はこの時期、業務上はシカンプロジェクトに属しているから、小川部長の下にある。複雑だ。
 谷部長は、もとのロスアンジェルス支局長で、実は島田教授とTBSとを引き合わせた人でもある。
 会話の中にやたらとイングリッシュを挟む。あまり挟みすぎて、時々言っていることが意味不明になる。変な人だ。

 小川様、西野様、穴水様

 状況にあまり変化はありません。繊維状の物の上から土などを取り除き、写真を撮りました。明日よりその下の発掘です。
 疋田は殺虫剤の類を大量に買ってきました。本日はあまりに蜂に刺され、一時ショック状態で気分が悪くなりました。両目の下瞼を刺されたのが、ダメージが大きかった模様です。
 明日をお楽しみに。
 
 95/11/2

 試してみたのは殺虫剤と香取線香と虫避けローションである。
 で、結果としては殺虫剤は最悪であった。昭和四〇年代のスプレーがそうだったように、刺激臭は強烈なくせにちっとも効かない。
 勿論、発掘現場での蜂の話である。パッケージによると「インスタントに蝿や蚊、ゴキブリなどが死にます」ということだったのだが、蜂はいたって平気だ。地下一四メートルの中央墓室にはもうもうと殺虫剤が散布されたのだが、かえって人間に害を与える。蜂には直撃しない限り何のダメージもない。むしろ、その場所から拡散させ、かつ人間に対して恨みを持たせるだけで(本当に持つのかは分からぬ。だが、私には厳然としてそう見えるのだ)、結果として悪いとさえ言える。
 香取線香は無いよりもあった方がましかも知れない、という程度である。
 意外だったのは、ペルー製の虫避けローションが意外と効くことだ。しかし、それも保つ時間は一時間程度である。汗で流れてしまうのだ。その度に何度も塗布しなければならぬ。蜂との闘いはまだまだ続いている。
 
 95/11/3

 今日が一一月三日ということは、昨日は日本では文化の日で休みであったのか。
 発掘現場は相変わらずである。
 虫避けローションは効かなくなった。というより、昨日効いたという方がなにかの勘違いだったような気がする。今日は昨日にも増してベタベタに塗ったのだが、どうやら蜂は一日で学習した。何をだ。
 発掘現場では、教授が写真を撮り始めたり、図を描き始めたりすると、我々は、することが無くなってしまう。そうなった時、私はトレンチのてっぺんから下を覗き込みつつ、CDを聴いていることが多い。
 CDウォークマンというやつだ。
 どこか自宅でないところに長期滞在したりすることが多い人は知っているだろうが、普通のカセットテープのウォークマンに較べると、圧倒的に有利な点が二つ。
 一つ目は、電池のもつ時間が長いということだ。私がもってきた機種は、充電すると七時間もつ。一日の量としては充分すぎるほどだ。

*でも、九七年の現在では「スタミナ何とか」という名前のカセットウォークマンが出回っていて、それらは驚異的なことに一回の充電で三〇時間ももったりするのだそうだ。凄い。

 もう一つが、この点が大きいのだが、ソフトがかさばらないことだ。CDのプラスチックのケースなどは家に置いてきてしまうから、厚さ八センチ前後のキャリングケース(と言うのか)に五〇枚も入ってしまう。五〇本のカセットテープは、ぞっとしないが、五〇枚のCDは楽々だ。こいつが素晴らしい。
 で、よく聴くCDはスペイン語講座である。その次がシンディ・ローパー。それから、最近売れてきた「スピッツ」というヘンテコな名前のバンド。
 だが、このスピッツの「ロビンソン」という歌はいいな。
 何故タイトルがロビンソンなのかは、歌詞の内容から全く類推不可能だが、メロディが好きだ。他にも良い歌が沢山収録されている(「ハツミツ」というアルバムだった)。
 このアルバムは、同期入社のハラヤマというラジオディレクターが奨めたものだ。彼は、このスピッツがまだ売れていないときから「疋田、これ聴け、絶対聴け」と、何枚ものCDを持って私に迫った。全て見本版のCDである。
 で、なるほど、彼の言うとおりに、なかなか良いし、実際売れてきたらしい。
 たまには彼の鑑識眼が当たることもあるのだ。
 このハラヤマという男は一種の狂人で、住んでいるとことが私の家に近いことから(荒川をはさんで東と西)、夜中に酒を持って乱入してくることがよくある。
 そして、気が狂ったように酒を飲み、議論をふっかけ、大声で笑い、大声で人を罵倒する。
 アメリカからのいわゆる帰国子女というヤツで、半分がアメリカ人だ。日本及び日本人を常に罵倒し、悪ぶってばかりいる。
 おばけのQ太郎という漫画の中に、ドロンパという名前で登場するオバケがいるが、あれと思ったら分かり易い。
 以前、荒川の河川敷で飲んだことがあった。休日の昼二時頃から飲みだして、夕刻には二人ともべろべろになった。
 ハラヤマは沈みゆく夕日に向かって、オザキユタカを熱唱した。聞くに堪えない音痴で、おまけに、歌詞を知らないので、出鱈目とラララの繰り返しだ。メロディもはっきりとは覚えていないらしく、サビの部分がエンドレスに続く。
 日が落ちると、ハラヤマは「泳ごう」と言いだした(危険だ)。素っ裸になり、空き缶とビニール袋だらけの、どろどろの荒川を泳いだ。
 勿論、最初から泳ぐつもりでここにやってきたわけではないから、タオルなどの持ち合わせなどない。
 水辺に上がってきた彼は焚き火を起こし、それにあたりながら、自然乾燥を待った。
 日はすっかり落ち、周りは真っ暗である。河川敷周辺の光といえば、この焚き火ばかりである。
 我々が飲んだ場所は、東武線と京成線と常磐線の鉄橋が密集する地域だったから、電車のすべての乗客から丸見えだ。
 東武京成常磐の各線の沿線に住む方々、覚えているだろうか。鉄橋際の荒川河川敷で、五年前、わめき散らしながら、素っ裸で焚き火にあたっていた男、あれがハラヤマである。
 で、そのハラヤマが、あろうことか、このシカンに来たことがあるのだ。九一年、東の墓の発掘の時だった。
 何をしていたのかと聞くと、うん、ラジコンのヘリを飛ばしていたんだ、と答えた。ロロ神殿と発掘の穴を空から撮ろうという作戦だったらしい。
 他には?と問うと、いやあ、何だか俺にも良く分からないんだよ、と言った。
 どうも聞いていると、最初に島田教授と会ったときに、島田教授と誰かを間違えるという不幸な出会い方をしたらしい。
 教授は、その後「あのハラヤマくんだけは参りました」と言っていたから、シカンの彼がどのようであったかは、推して知るべしである。
 ただし、ハラヤマは義井氏とは仲が良い。
 だから、義井氏と私は、時折、ハラヤマの狂人ぶりを肴に盛り上がったりした。

 95/11/4

 小川様、西野様、穴水様

 帰ったらすぐに編集をしなくてはなりません。ですが、発掘は以下の通りです。希望はあります。ですが、それがいつになるのか見極めがつけられません。難しい状況です。
 ところで、オウム真理教裁判はどうなっていますか。山口で地震があったそうですが、どの程度だったのですか。

 ホテルの外が騒がしいのは、今日が土曜日だからである。夜になると、庭を挟んで隣のビルでダンスパーティが行われるのだ。前回来たときと同じだ。梶谷おばさんがこれを非常に嫌がる。うるさくて眠れないのだという。私もうるさいと思う。困ったことだが如何ともしがたい。ホテルに苦情を言っても埒があかない。あくわけがないのである。ここはペルーだから。誰も皆騒音を騒音と思わない。ここは何が何でも音がでかければ、派手でゴージャスで偉いという国なのだ。恐らくは「騒音」という言葉すら無いだろう。(あるかもしれぬ。多分それくらいあるな)
 街で売っているラジカセなどのスピーカーには必ず「一〇〇W」やら「一七〇W」やらの札がついている。
 この国では、ラジカセの性能はつまるところ音量のでかさが勝負だ。実際に買おうとすると、店員は必ず誇らしげにボリュームを最大に上げて鳴らしてみせる。「一七〇W」とやらをフルボリュームにする。睫毛が震える。で、店員は平然とこれで良いか、てな顔をするのだ。街角でいきなり大音量でラジオを流すから、あ、ラジカセ買ってるな、というのがまわりにすぐ分かる。だが、誰も振り返らない。至極当たり前の光景だから。フルボリュームだから当然、音は割れる。だが、関係ないのだ。グラフィックイコライザーなどという小じゃれた機能も付いていたりするが、この音量、この音質では馬鹿みたいである。
 日本もかつては欧米から「ラウドスピーカーの国」などと呼ばれたりしたことがあった。今でも欧米諸国に較べると若干騒音にはデリカシーがないかも知れない。選挙期間になるとすぐ分かる。右翼の人々を見てもすぐ分かるな。安売りカメラ屋を見てもそうだ。途上国は騒音に鈍感なのだ。
 で、日本が途上国であると、逆説的に言ったところで、真実を伝えてはいない。この国に較べればやはり日本の方が幾分はマシで、つまり、この国は日本より一段と騒音に対してデリカシーがないのだ。
 しかし、そうは言ってもこのうるさいうるさいダンスパーティで流れる曲が私は割合好きだ。あらゆる曲に必ず泣きが入っている。哀愁のメロディである。南米に来たという気がする。少し前に流行ったんだか、流行っていなかったんだか分からなかった「ランバダ」ブームというのがあったが、あの曲調に近い「泣き」だ。私は好きだ。あのダンスは別にして。
 ホテルのこの部屋からは見えないが、その向かいのビルの三階にあるダンスフロアはバルコニー開けっ放しだ。中でボインボインのお姉ちゃんたちと垢抜けないお兄ちゃんたちが踊り狂っているのだろう。シルエットだけは見える。お姉ちゃんたちの顔は、みんな少々くどくてあまり感心しないが、ボインボインはいいな。チクラヨの町を歩いていると、すれ違う女性のオッパイばかりに眼が行って困る。硬質のオッパイである。別に触ったわけではないが、そう見える。夏が近くなってきたので、町を歩く彼女たちも、前回来たときよりも夏の装いになっているのだ。一年中夏のくせに、やはり季節の服はあるのである。
 夏が来るといえば、現場では、今回は、やはり蜂だ。義井氏の話でも、東の墓を掘ったときも、ここまでひどくはなかったそうだ。とにかく異常な数だ。そしてそれがまとわりつき、そして時々、というか、かなりの頻度で刺す。
 その刺されたところがとんでもないことになった。
 今朝、起きると目が開かない。一日(11/1)に刺された両目の下の部分が異常に腫れ上がってしまった。さらに腕の刺された部分も斑上に腫れ上がった。刺された中指は腫れて曲がらない。情けないことになったものである。鏡を見るとただでさえ細い私の眼が更に更に細くなった。眼のまわりが一様に腫れているので、上と下の瞼が眼球を圧迫している。北の湖の眼である。高木ブーの眼とも言える。そして、始末の悪いことに痛痒い。
 義井氏や下野氏はどうかといえば、なんともない。
 なぜ私だけかと問えば、考えられる理由は次の如くである。
1 私だけが特別な体質であった。
 これは同じ場所にいても蜂どもが私の方ばかりに集中することでも首肯できる。単に汗かきだからというだけかも知れぬが。
 刺された数も多分段違いに多いだろう。あまりに蜂の毒を注入されたために抗原抗体反応が起きて、本来の体質とは別に後天的なアレルギー体質に変わってしまったのかも知れぬ。
2 私だけが変なものをつけていた。
 これはつまりペルー製の効かない虫避けローションのことだ。蜂があまりに私に集中するので、この効かないローションを顔や腕に大量にベタベタつけていた。皮膚がぴりぴりして、多少刺激が強いかな、などと思ったりしていた。
 当初、勘違いしていたときに、私が勧めると両氏は「いいよ」と断った。賢明であった。
 恐らくは原因は後者である。
 だが、いずれにせよ対策を考えないといけない。しかし現在のところ、これといった決定打がないのだ。決定打どころかポテンヒットすらない。
 水を張った皿を置いて蜂の目をそちらに集中させるという作戦は、もはや焼け石に水皿である。連中の数がそのレベルをはるかに超えているのだ。
 殺虫剤と香取線香は二日の記述通り駄目だった。殺虫剤を水皿に混ぜておくという策も、蜂たちの「そもそもそんな水のまわりには集まらない」という反撃で効果を上げなかった。虫避けローションは、鏡を見るとおりの結果である。おまけにあまり効かない。
 そんな中で本日はエクトル氏による抜本的対策が打ち出された。バタングランデ地方に伝わる秘伝だ。蜂蜜を採るときに蜜蜂を巣から追い出す時に使うある種の木を燃やすのである。その煙には決して蜂は寄りつかない筈であった。
 だが期待の大きさとは裏腹に、結果は今までのどれにも増して最悪であった。
 トレンチの中に、もうもうたる煙は充満したが、蜂たちには香取線香以上にそのような煙は何ともなかったのである。煙及び熱気に参ったのはむしろ人間たちだった。
 蜜蜂や足長蜂や雀蜂(これは恐いが)のように巣を作る蜂だったら、何とかその巣をつきとめ、一網打尽にやっつけることも可能だろう。だが、何というのかこの蜂は(図1)形状、大きさからして日本のジガバチのように一匹一匹勝手に巣を作り、どこからともなく大挙してやってくる種類のように思われる。
 今日はいつにも増して蜂が多かった。クールな(または、クールに見せたい)教授も12時以降「蜂で集中力を欠いて仕事になりませんでした」と初めて言った。瞬間、私は蜂にちょっとだけ好意を持った。だが、対策は疋田個人のみの思いでなく、緊急を要している。
 月曜日に向けて考えている対策は目下のところ2つである。
 一つ目は胴の長い容器に石鹸水入りの水を張ることだ(図2)。表面張力の極端に低くなった水に、水を求めてきた蜂はつるりつるりと落ち込んで行くだろう。連中は羽根が濡れたら最後、もがいても二度と水上にでることは出来ないから、これは効くのではないかと思われる。
 今までの水皿作戦は、蜂の目を逸らそうという消極的発想であった。だが、この作戦の中から、私は学んだのである。皿は深ければ深いほど、夕方になって皿の中で死んでいる蜂の量は多い(図3)。連中は水面から垂直に立っている壁面はやはり苦手なのだ。そこに石鹸水があるとしたら。これはやってみる価値はある。
 二つ目は捕虫網作戦である。私がひたすら網を振り回すのだ。原始的である。だが、やってみたら意外とこれが一番なのかも知れない。
 気温があと五度高くてもよい。蜂さえいなければ。

 さて、肝心な発掘の成果である。
 本日までのところ、中央墓室の中からはこれといった副葬品は相変わらず出ていない。だが、私は思う。糸井重里氏の徳川埋蔵金関連の著作に「あるとしか言えない」というタイトルの本があったが、正にそれである。糸井氏どころのレベルではなく、状況は確かに何物かが眠っていることを示している。
 現在のところ中央墓室の深さは一・八メートルから二メートルというところだ。
 中央墓室、西の壁面から説明していこう(図4)。Vの字になった竹の繊維状のものは取り除かれた。すると、その下からは更に竹の土台が現れた。竹を縦に二つに割ったものが並べて敷き詰められているのである。敷き詰められているというよりも壁に立てかけてあるという風情だ。そしてその竹が、墓室の北の方面からも続いていることが分かった(図5)。中央墓室からはずれた部分は現在露出している部分から、下に二、三〇センチのところで止まるだろうというのが教授の予想である。つまり、敷き詰められた木綿の織物の上までそれは続くということだ。
 東の壁面からは、こちらもV字状の竹製の繊維が出た(図6)。西のそれに較べるとかなり小さく、深さも途中までだ。そしてその下を掘ると、木綿が出た。木綿の布が中央墓室をくるむように覆っているとの予想はここまでのところ当たっている。
 南の壁面からは柱が出ている(図7)。南の壁面が目下のところ最も深く掘り進んでいる地点である。土質が変わった。砂状のものになった。何を意味するのかは分からない。
 北の壁面は取り立てて何もいうべきことはない。全体の構造は図8の通りである。
 あらゆるところで出てきている木綿布(梶谷氏が断定。木綿状とはもう言わない)であるが、いろいろと興味深い特徴を持っている。
 木綿は単独では出ない。最も保存状態の良い東側の縁と北西の隅のものを例に取ると、木綿は何かの絵を描かれた後、トゥンバガに張り合わされ、木製のフレームに型どられ(平面に置かれたものについては)しわが出来ないように丁寧に裏向きに置かれたものと思われる(図8)。
 木綿に描かれた絵は図9の如くである。図9は南東の図10の地点から現れたものだ。絵を出すのは実に大変な作業である。何故ならば、木綿は裏向きに置かれているためにトゥンバガをまず取り外し(殆どがボロボロのために緑の粉にしかならない)、木綿の繊維を歯科医の道具で少しずつこそげ落としていく作業を経ないといけないからだ。その結果、塗料だけが墓の底面に付着する格好で現れる。だから図9は実は鏡面図である。実際にはこれを鏡に映すとオリジナルの構図が分かるというものだ。
 教授はこの木綿が一〇×六の全体墓室の床全体に張り巡らされていると想像している。私もそれは正しいと思う。
 中央墓室の北東の縁に小さな穴が発見されたが、その中からはリャマの骨が出てきた。まるでリャマの焼き肉を食べて、その骨を捨てていったかのような出鱈目な出方である。しかし木綿はそのまわりを丁寧に覆っている。
 この穴の少し南では「木綿トゥンバガ張り合わせ」の上から粉々になった土器の破片が発見された。何らかの儀式の跡だろうと教授は説明する。葬式に際して、故人の持ち物、特に食器類を破壊することは、どこの文化でもある。日本の地方にもこの風習が残っているところはある。
 ラファエロ氏が暇だったので東の壁面の南の横穴を試しに掘ってみたら(図11)、土器と赤い布が出てきた。恐らくこの穴には誰かの遺体が安置されている。
「又はずれましたね」と教授は笑った。「打率が悪いですね」と言う。ロロ神殿は、ノモ神殿でもあったのだ。
 クリソーレスの形状は疋田の誤りであった。土を取り除いてみると図12の如くであった。これらはまだ西の壁面に置かれている。
 以上である。
 月曜日からは、いよいよ(この言葉を何度も使う。疋田はもう飽きた)竹の土台を取り除いてその下を掘る。来週中にはご本尊とご対面できるだろうと教授は言う。しかし、教授は同じことを先週も言っていた。
 確かに何かがある。
 このような巨大な墓を掘り、丁寧に丁寧に木綿の布とトゥンバガを敷き詰め、かつこのような複雑な構造(教授談)を持った墓に何もないはずはないのである。
 盗掘の跡はクリアした。
 来週こそが本当のクライマックスであろう。
 あるとしか言えない、のである。

 95/11/5

 一日中、ホテルで構成を考えていた。ところが、すでに撮ったVTRをきちんと見ておかないと、なかなか原稿の案が浮かんでこない。ペルーに出かける前にプレビューをしっかりしておくべきだったぁっ、と今更言ってももう遅い。
 日曜日だというのに、南米だというのにホテルにずっといる。時々パソコン相手に将棋を打つ。一〇〇手以内には必ず勝てる。もはや私の敵ではない。空しいのである。
 気が詰まるので昼食を食べに外に出ていった。チクラヨの街は今日は何らかの宗教的祭りである。キリスト像が御輿の上に乗り、市内の目抜き通りを法服を着たおっさんたちが練り歩いていた。セントロの寺院の前も賑やかだった。件のオッパイ娘どもがたくさんいた。
 祭りだからなのか、日曜だからなのか、店が全然開いていない。遅い昼食は食べるには食べたが、買っていこうと思った蜂対策のポリバケツが買えなかった。残念である。
 街の市場には鳥屋があった。ミルースカと同じ種類の鳥がここでも沢山売っていた。オウム目ズアカミドリインコという種類であることが既に分かっている。東京に帰ったときに調べたのだ。
 ズアカとは頭赤で、ミドリは勿論、緑である。そのままの名前だ。雄は頭の赤い部分が大きく、雌は小さい。ミルースカは紛れもなく雌であることが判明した。どおりで言葉を覚えないわけである。リマの鳥屋に騙された。
 篭に手を出すと逃げようとする。あまり慣れていない。私のミルースカは、リマの鳥屋から赤ん坊の状態で買ったから、慣れているのだ。私の肩にずっととまっている。慣れているのと慣れていないのとではかわいらしさが全然違う。リマの鳥屋は良い鳥を売ってくれた。
 現在、葛飾の実家に預けてある。元気だろうか。
 それ以外の鳥たちもそれなりにいたが、総じてこの国の鳥は緑色をしている。大きいのも小さいのも。
 
 谷プロデューサーへ
 勤務表(現地時間)
 *略

 95/11/6

 スポンデュラスが出てきた。日本語で海菊貝という。九つある。東の墓は二〇〇あまりだったそうだ。この差は一体、何を意味するのか。
 鈴も出てきた。小さな鐘と呼ぶべきか。美しい青色である。銅に何らかのミネラルが化合するとこのように非常に美しい色を出す。例えば、硫酸銅がそうだ。
 だが、美しい色とは裏腹に、それはあまり好くない兆候である。東の墓の鈴は黄金製だった。ベンタナス神殿のものはトゥンバガ製だったそうだ。今回は銅である。
 それにしても謎だ。このような巨大な墓を掘りながら、このように複雑な構造を持ちながら、このように丁寧に丁寧に織物を敷き詰めながら、なぜ副葬品はこんなにみすぼらしいのか。

 95/11/7

 小川様、西野様、穴水様

 西野さん、エルニーニョの情報ありがとうございました。森田さん(*お天気キャスターの)にもありがとうございましたとお伝え下さい。島田教授も「そうか、へえ」と喜んでいました。「だけど雨が降るんじゃねえ」とも続けていましたが。
 発掘は形容しがたい焦燥感の中じりじりと進んではいます。しかし、その決着は、となるとさっぱり分かりません。当の教授にも分かっていません。それでも我々がすがっているのは「だが、地上から一五メートル以上掘った地点からこのような複雑な構造の巨大な墓が見つかるのだから」というただ一点のみであります。だが、それで充分、それが根拠だ、と疋田も考えています。
 これからの状況を鑑みつつではありますが、疋田は金曜日の昼に義井氏、下野氏とともにリマに行こうかと考えています。理由は義井氏のリマ市選挙取材と下野氏のテープ送りです。義井氏の共同通信の仕事が選挙で、週末忙しいのと、テープ送りはウィークデイ中でないと出来ないことから下野氏もリマに行きます。テープはリマの下野氏の自宅にあります。カメラ無い、足無い、スペイン語出来ない、発掘も週末無い、では仕様がないので疋田もついでにリマに行きます。発掘は土日は確実にありません。教授断言です。先週休み返上の作業をしたため作業員の休みをとらざるを得ないからです。勿論、木曜日、もしくは金曜日午前に何かがあれば予定は即座に変更しますが、そうでない限り上記ご了承下さい。疋田はリマのホテルで原稿を書き始める予定です。
 末尾に勤務表を付記しました。谷Pにお渡し下さい。
 以下、日月火の三日分です。最近ANA通信が来ないので疋田は寂しいです。

 梶谷氏が今日で最後である。明日の朝の便でリマに行ってしまうそうだ。気持ちの良いおば(あ)さんであった。今晩は彼女の送別会をやった。送別会とは言ってもチクラヨのちょっといいレストランで飯を食っただけではあるが。
 梶谷氏はちょっとシックな格好で来た。口紅もひいていた。おしゃれなおば(あ)さんである。我々の会話にもきちんと着いてくる。おまけにちっとも偉ぶらないし。
 本当はメトロポリタン美術館染織保存部長という偉い人なのである。理想的な六〇歳女性だ。このような年老い方をしたいものだと思う。
 だが、彼女の言う自称六〇歳は恐らく嘘だと思う。
 チクラヨとバタングランデ村を行き来するバスの中で話す時によく出てくる彼女の女学校時代の話などを総合するに、どう考えても七〇歳近くだ。もしくはそれ以上である。だが、そうだとしたら、彼女の若さはますます驚嘆に値する。
 偏頭痛を起こして昨晩は早々に寝てしまった。子供の頃はよく偏頭痛を起こしたものだが、最近はなかった。珍しい。久しぶりに吐き気を伴った懐かしい痛みを味わってしまった。バファリンも効かない。こういうときは寝てしまうに限るのだ。おかげで西野氏に寝ぼけた変な電話の応対をしてしまった。
 で、昨日のと併せた発掘報告。
 月曜日と火曜日で出たものは、まずはスポンデュラス(海菊貝)が一一個。本日、西の壁から取り外した(図1)。貝殻というものは本当に丈夫に出来ている。千年の月日をもものともせず、白い外観と赤い内部を保ちながら発見された。とげとげもそのままである。東の墓のものと同様である。ただし、気になるのが一一個という多いとみるべきか少ないとみるべきか、恐らくは少ないとみるべきその数だ。不吉だ。
 二つ目は銅製の鐘(図2)。これまた「銅製」という不吉な属性を持っている。何だろうか。教授は特に言及しない。
 雨が降ってからというもの、教授の表情が険しくなった。昨日は「疋田さん、撮影の時以外はトレンチ(中央墓室)に入ってこないで下さい」と言われてしまった。それが当然とはいえ、今まで良い状態が続いてきたので少々ショックであった。教授は半分以上アメリカ人だから時としてこういう言い方をする。純正日本人だったら「ちょっと遠慮してもらえませんか」などだろう。とは分かっていても、ナイーブな私は考えてしまうのだ。あれが悪かったのだろうか、などなどとね。
 蜂に大騒ぎしたのが悪かったのだろうか、帽子を被りっぱなしでインタビューしたのがまずかったのだろうか、土器を壊してしまったのが悪かったのだろうか、こっそり黄金のかけらを持ち帰ってしまったのが悪かったのだろうか。トレンチに向かって立ち小便をしていたのがばれたのだろうか。
 嘘である。最初の二つを除いては。
 とにかく教授は険しくなった。冗談もあまり言わなくなった。それは水と時間に対するあせりと、やはり発掘が核心に迫っていることを示すものだろう。
 三つ目である。人間の大腿骨に非常に似たリャマの骨が出てきた(図1)。中央墓室の中からだ。まるで人間が逆さまになってあぐらを掻いているとこのように発掘されるだろうといった格好だったから、取材陣は一瞬色めき立ったが、教授は冷静に「リャマです」と言った。がっかりだった。
 四つ目。ラファエロ氏が掘り出した東七番の横穴からは土器と繊維状のものが数出てきた(図3)。壷状のものにはシカンの神が描いてある。そしてその土器のいくつかが逆さまである。何だろう。教授も「まだ分かりません」を繰り返すばかりだ。
 教授と疋田との会話
疋田「島田君、君はいつまで掘り続けるのかね」
教授「現在、中央墓室は二メートル三二センチ掘ったところですから、あと六八センチ、つまり三メートル以内には何とかなるかと、、」
疋田「君は一メートル掘った時点でも、あと一メートルと言っておったのではなかったかね」
教授「どうやらそれは違ったようです」
疋田「今度こそ大丈夫だろうね」
教授「それがですね、三メートル以内に何らかの墓の主人に関するもの、もしくは主人そのものが出ると私は予想しているのですが、どうにも今回の墓は複雑でかつ我々の経験にない種類のものですから、、。もしも三メートル以内に出ないとしたら、我々の予想をはるかに越えたものであって、そうなってはもう何とも言いようがないのです」
疋田「それはよい。で、どうかね、いつ頃までに目途は立ちそうなのだ」
教授「は、今週中には何とか」
疋田「島田君、君は先々週からそのような言い方を繰り返してはいないか」
教授「は、今回もそれと同じようなニュアンスでと」
疋田「どういうことかね、それは」
教授「恐れながら考古学とは遺物が発見される度にそのものの持つ意味を考えなくてはならない学問でして、何かが発見される度に詳細に記録をとらなければならないので、時間がかかるのです」
疋田「記録など黄金以外はよいではないか」
教授「そういうわけにはいかないのです」
疋田「いいかね、島田君。東京本社が欲しているのは黄金なのだ」
教授「それは分かっております。しかしながら、考古学的意義を考えますからこそ東京本社も我々に援助して下さるのだと私は解釈しておりますが」
疋田「そんなことは分かっておる」
教授「は、平に」
疋田「しかしだ、島田君。君は我々に隠していることは無いのかね」
教授「は、まだ分かりかねることはご報告するわけにはいかないかと」
疋田「ううむ、とにかくしっかりやってくれ給え」
(全編、中でも後半かなりのフィクションを含む)

 妙な焦燥の気分の中、明日も発掘は続く。

 95/11/8

 早朝、突然の電話があった。四一二号室、つまり義井氏の部屋からだ。
 義井氏のお母さんが亡くなったそうだ。義井氏は急遽東京へ帰ることになった。
 今まで撮ったVTRをついでに東京に(不謹慎ではあるが)届けて貰う関係で我々もリマに行くことにした。
 一足先の義井氏に遅れて、下野氏と私は一七時チクラヨ発の飛行機である。発掘現場に出かけ、教授に義井氏の話を告げた。教授は「我々の年齢になると、突然のそういうことはあるのだ」と言った。教授のお父さんは三年前になくなったそうだ。実のお母さんは子供の時に既に亡くなっている。
 肉親が死ぬことがどういうことなのか、経験のない私には分からない。義井氏は「前から具合は悪かったから、いつかそういうことになるとは予想していた」と言った。
 午後二時過ぎに現場を引き揚げ、空港に向かった。リマに着くと下野氏の事務所と義井氏の事務所に行った。
 義井氏は帰国の準備をてきぱきと片づけ、我々の境遇を整え、疋田がペルーにいるうちには帰ってくると言ってペルーを去った。義井氏は笑っていた。おっとなーという感じである。やはり寂しかろうとは思う。飛行機の中で幼い日の夢でも見るのではないかと思う。
 リマに来たおかげで日本料理が食べられた。マグロの刺身は美味しかった。味噌汁も美味しかった。日本酒も美味しゅうございました。まるで円谷幸吉である。
 ホテルの名前はアシェンダホテル。シェラトンほど高級然とはしていないが、こじんまりとして気持ちの良いホテルである。地下には例によってカジノがあった。前回の勝利が忘れられない私は深夜、顔を出してみた。ごったがえしていた。正に満員電車状態で、ウィークデイだというのにリマ市民たちはこんなに遅くまで何をやっているのだ。
 目当てのルーレットやらブラックジャックやらはすべて一杯で、スロットマシンが何台か空いているだけだったので結局一巡りして出てしまった。
 ディーラーのお姉ちゃんたちが美人揃いである。ミニスカートである。高足のストゥールに座って足を組んでいる。私は「パツキンパイオツカイデーシーアーガイナー」とつぶやきながら地下をフロアを歩いた。ギョーカイ人である。このホテルは彼女らだけでなくフロントも美女ばかりだ。特に最初に出てきた笑顔のお姉ちゃんは女優かモデルだった。顔の部品が各々ちょうどよい大きさで、配置が正確であり、かつラインが皆柔らかい。穴水女史とがっぷり四つである。ひょっとしたらフロント美女の方に若干の分があるかも知れぬ。
 ただし単に街を歩いていても美人が目につくような気がする。さすがは首都というべきか、やはりチクラヨは田舎なのだ。
 ケーブルテレビジョンのチャンネルが七〇以上もある。南米各国の放送局、アメリカの三大ネットワークやCNN、HBOなどメジャーなケーブル局などが全て映る。日本に帰ったらケーブルの契約をしようと決意した。ここまで凄くはなかろうが、まあ、外国に来たらいつも思うことだが、CNNが四六時中映るのはいいことだ。
 日本に帰ったらするべきことが四つある。
 ケーブルテレビの契約をすること。
 クルマを車検に出して、綺麗に掃除して、傷の部分を修理して、ブレーキパッドやオイルを交換すること。
 マッキントッシュをアップグレードすること。
 山形県天童市に出かけて、将棋盤と駒を買うこと、である。
 最後のもペルーにいて決意を固めた。
 パソコンに入っているほとんど唯一のゲームが「AI将棋」というやつなのだが、徒然なるままにマックと対局しているうちに完全にはまった。発掘現場にいるときにも時々「3四歩」などと思ってしまう。現在「標準レヴェル」は敵ではない。「強いレヴェル」でも七割以上は勝てる。「最強レヴェル」は手古摺る、というところである。
 このソフトは相当によくできていて、こちらがワンパターンの攻めをしていると、覚えてしまって次回の対局には別の受けを考えてくる。
 コンピューターで将棋のおもしろさを再確認した。小学校高学年の頃の好きだった時代を思い出す。
 それからもう一つやることがあった。葛飾の実家に顔を出すことである。とりあえず絵はがきでも書こうと思う。

 事業部の石飛氏に教授から伝言。金箔の汚れだけではよく分からないとのこと。錆なのか? 綺麗にするとはどのようにするということなのか。基本的には丑野先生のグループだろうから大丈夫だろうとは思うが、とのことである。 

 95/11/9

 リマから帰ってきた。朝の八時に出たというのに空港で少々トラブルがあったので、発掘終了にやっと間に合うくらいのタイミングだった。
 チクラヨに帰ってきて、夕食をエミリオさんの一行と食べた。彼らも今日リマから到着したのだ。前回の発掘以来、久しぶりのエミリオ氏だ。相変わらず元NHK磯村キャスターにそっくりで、「ヒキータさーん」とニコニコ笑いながらエミリオ節の日本語を喋っていた。
 エミリオ氏の一行というのは日本からの旅行社視察団である。エミリオ氏はテレビ取材班のコーディネートのみならず、日本からの様々な旅行企画の通訳兼コーディネートをやっている。今回の場合は色々な旅行社各社が、シカン遺跡のツアーの企画を練りに来るのが名目のツアーなのだが、実は結構、慰安旅行的側面があるらしい。呉越同舟だというのに皆さんかなりお気楽な感じであった。
 驚いたのはその一行の中に、幻の美女、大高美樹氏がいたことである。元ミス日本である。
 私は彼女のことをずっと前から知っていた。
 私が、かつて制作局にいたとき(一年半、バラエティ番組を作っていた)、圭三プロという美女団体プロダクションと付き合いがあった。その中に峯岸伸子氏という美女レポーターがいて、その友達なのだ。その峯岸美女の話によく出る友達の名前にこのオオタカミキがあった。疋田は面識は全くない。話だけだ。
 峯岸美女の話によると、そのオオタカ氏はJTBにいたのだが今は辞めて週刊誌のライターなどをしている、海外の取材が多い、私も一緒にロスアンジェルスに只で連れていって貰ったことがある、得しちゃった、美人よ、元ミス日本なんだから、てなことであった。それが彼女だったのだ。全くの偶然であった。「ミネギシ」というキーワードにびっくり仰天した。世間は狭い。
 例のソレントで食事をした。チクラヨでは定番である。繰り返すが、ここのステーキは恐らく世界で一番旨い。おまけに量が多くて安い。この店があるだけでチクラヨに来る理由はある。

 95/11/10

 二日酔いであった。久方ぶりである。昨晩は例の幻の美女、大高美樹嬢と下野氏とホテルのバーで飲んでしまった。私ははしゃいでしまって、調子に乗ってバーボンをぐいぐい呑んでしまった。小川部長から電話が来たのはその最中である。フロントで受話器を取った。何を喋ったのかは忘れた。昨晩はひたすらオオタカミキであった。

*「何を喋ったかは忘れた」などと暢気なことが書いてあるが、実はこの日の小川部長の通達は、重要なものだったのだ。
 その内容は「スペースJ」の谷プロデューサーからの伝言だった。
 「スペースJ」で放送予定だったある特集ネタが、諸般の事情から倒れた。よって再々来週の放送に穴があく危険が出てきた。ついては、その枠に急遽、シカン発掘を突っ込めないか、というものだ。
 突っ込めないか、というのには語弊があり、事実は「突っ込め」という命令である。
 それでも小川部長は「今の状態で出来ると思うか?」という打診ということで電話したのであった。だが、前述の通り、気持ちよく酔っぱらっていた私は、「なあに、楽勝っすよ」などと答えたのだ。
 私は自らの首を絞めた。
 当然の結果として、それは谷プロデューサーに伝わり、楽々と放送予定の中に組まれ、私には必然的に締め切りが生じた。
 それも、発掘がまさにクライマックスに差し掛かろうとするその時に「帰らなくてはならない」というスケジュールでの締め切りである。
 後述するが、私は西の墓から、いよいよ「深紅の頭蓋骨」が発見され、「黄金の頭飾り」が発見された、その翌々日に、後ろ髪を引かれるような思いでペルーを去ることになった。
 その下からは、大仮面が出てくる筈だった。二〇体を越える人骨も、黄金のペンダントも発掘されたはずだった。
 そして、西の墓の、不可解、そして、巨大な構造が、続々と判明してくる筈だったのに。
 痛恨であった。
 私は、東京に帰ってきて、谷プロデューサーに「何でこんな時期に引き上げろなどと言うんですか」などと文句を言ったが、後の祭りどころか、それは自業自得である。
 何ということだったのだ。
 
 幸いなることに発掘は大して進まなかった。ただ番組にとっては幸いではない。
 義井氏の不幸から三日目になる。進まないとはいっても変化はある。
 一番の変化は中央墓室が深くなったことだ。間もなく三メートルに達しようとしている。
 教授と疋田の会話
疋田「よー、イズミぃ、どうなってんだよう」
教授「見りゃわかるだろ、掘ってんだよ」
疋田「いつまで掘るんだよ、その中央墓室ってやつ、もう三メートル近いぜ」
教授「あと一メートルだな」
疋田「お前さあ、こないだもあと1メートルって言ったじゃないかよう」
教授「うるせえなあ、壁がまだ続くんだからしょうがねえだろ」
疋田「金はまだかよ、金はよ」
教授「向こう行ってろよ、お前よ。穴ん中入るんじゃねえよ」
疋田「そこあるの何だよ。金じゃねえのかよ(図1)。新聞紙で隠してるのが怪しいよな」
教授「トゥンバガだよ、ただの。うるせえな」
疋田「そこにあるのは骨じゃねえのか(図2)、何の骨だよ、それ」
教授「リャマだよ。頭の部分だな。南側から足の骨で、北側からは頭って訳だ」
疋田「金のこと以外は喋るじゃねえか。お前何か隠してないか」
教授「隠してねえよ」
疋田「じゃ、それ何で新聞紙で隠すんだよ」
教授「お前に見せると腐るんだよ」
疋田「てめ、せっかく日本からこんなくそ暑いところに来てんのによ、お前もちっとはサービスしろっつんだよ」
教授「サービスっつてもなあ」
疋田「いいじゃねえか、ほら。何だよそれ」
教授「お前に喋ると東京にばれるからなあ」
疋田「お前さ、それ悪い癖だよ。その秘密主義。結局分かっちゃうんだからいいじゃねえか」
教授「つってもなあ」
疋田「ほら、ほら、言ってみな」
教授「、、、」
疋田「金なんだろ、それ」
教授「猫科の動物が描いてあんだよ」
疋田「金にか」
教授「うん」
疋田「大きさはどれくらいなんだ」
教授「分からないんだよ。まだ端っこだけだからな」
疋田「凄いじゃねえか」
教授「あのなあ、ヒキタ、小川の兄貴に言ってくれないか」
疋田「うん」
教授「確かに一個は出たよ。東の墓からも同じ様なのが出てるけど、多分これも同じものだと思うな、俺は。
 出るよ、これからも。多分。そんなに沢山だとは思わないけどな。
 お前も言ってるようにあと一メートルって言い続けてたけど、今度こそ本当だよ。あと一メートルが勝負だ。
 だけどさ、前回の墓みたいにざくざく出てくるなんて方が異常なんだぜ。あの調子で期待されたら困るんだよ、俺は」
疋田「うん」
教授「だからさ、小川の兄貴には『金は少なくとも一つは出ます』ぐらいに言っといてくれないか」
疋田「でも、一つってのは、そのもう出てるそれだろ」
教授「そうなんだけどよ」
疋田「じゃあ良いじゃねえか」
教授「うーん、、。じゃあな、東の墓みたいな異常に金が出る墓ではないってことだけは念を押しといてくれな」
疋田「分かった」
教授「こんなにでかい墓で、一五メートル以上も掘ってまだこれ一つなんだからな」
疋田「オーケー。じゃあここらで一つ、そのあたりのことをカメラの前で言ってみよか」
教授「カメラの前? 俺は絶対喋らねえぞ」
疋田「何だよ、お前それ。せっかく素直になってきたと思ったのによ」
教授「絶対駄目」
疋田「お前さあ、俺が何のためにここに来てるかわかってんの?」
教授「ぜえったい駄目」
疋田「教え授けるって書いて教授って読むんだぜ」
教授「俺は偏屈な教授で通ってんだよ」
疋田「お前その辺、評判悪いよ。昨日来た旅行社の女の子たちも(注:旅行社の一行の中には大高嬢以外にも四人の妙齢の女性がいた)『無口で無表情な先生ね』なんつってたよ」
教授「俺は無口で無表情なんだよ」
疋田「元ミス日本も言ってたぜ」
教授「(ちょっとショック)いいんだよ。考古学は無口な学問なんだよ」

 きりがないのでやめる。
 前回と同じく一部(どころか、殆ど)フィクションも混じっているが(特に最後、全くのフィクション)、大筋このような会話がなされた。画期的である。
 ところが実感がない。「出たー」というものがない。
 本来はファクシミリにも「出ましたあああ」とでも書こうかと思ったが、現実はこんなところである。
 月曜以降は演出を考えなくては。
 
 95/11/11

 土曜日である。完全なるオフにするつもりだったのだが、構成などをまたまた考えることにする。何か決め手に欠ける。下手の考え休むに似たりである。

(以下別紙)

 95/11/12

小川様、西野様、穴水様、さらに義井様

 ランドクルーザーはまだ盗まれていません。パンクもまだです。
 リマではアンデラーテが勝ちまして、下野氏の解説では「これだけキャンペーンをやって負けたんだから、結構フジモリも苦しいよ」とのことでした。
 久しぶりにバタングランデ村ロータリーに行って来まして、ミルースカ嬢(人間)もちょっと見かけました。子供たちは私を覚えていて、相変わらず「ヒキタ、ヒキタ」と寄ってきます。今回は少しはましかと思いましたが、やはり子供相手にもスペイン語は喋れませんでした。
 疋田は一九日(ペルー時間)のアメリカンで帰ろうと思っています。詳しくは後ほどお知らせします。編集スケジュールなども立てなくてはなりませんね。
 気になってたのですが、TBS・日テレ戦争はどうなってるのでしょう。
 それから個人的な興味なのですが、あの俗悪番組、弊社の火曜「ねる様の踏み絵」の視聴率をお教え願えませんでしょうか。

 選挙一色である。チクラヨもバタングランデも。ラジオから流れてくるニュースでも、リマ市長候補のセニョールヨシヤマとセニョールアンデラーテの話ばかりだった。
 ヨシヤマとは、その名の通り、日系のペルー人である。フジモリ大統領以来、この国の政界には非常に多くの日系人が進出している。歴史に名高いクスコ市の市長も日系人だ。リマ市長候補ヨシヤマ氏はフジモリ大統領の肝煎りの候補なのだそうだ。大統領支持率が大変高いこの国で、多くのマスコミは、彼は当選するとの見方をしている。だが、あまりの日系人の進出に嫌気を持っている市民が、アンデラーテに転じると、分からないとのことであった。マスコミは大なり小なり大統領府の影響を受けているそうだから、実際のところは勝敗の行方は五分五分というところだ、と義井氏は言っていた。義井氏は、フジモリ政権に対して少々批判的だから、ヨシヤマ候補についてもあまりよく言わない。
 私も思う。決して多数派とは言えない、どころか数パーセントしかいない日系人が政界の中枢を固めてしまって、果たしてこの国のために良いのかどうか。
 で、今日は選挙取材をした。リマから遠く離れたチクラヨから更に遠く離れた田舎の中の堂々たる田舎の横綱、バタングランデ村の選挙だ。
 日本でも田舎であればあるほど選挙は盛り上がる。まして今日は投票日だ、との魂胆であった。
 魂胆の通り、だが変な盛り上がり方をした。
 バタングランデ村のみならず、発掘現場近くはピティポ郡に属する。そのピティポの「郡長」選挙だ。バタングランデ村はピティポ郡の中では一番の村であるから、バタンの村民の意向は選挙結果を大いに左右する。
 そのバタングランデに有力候補者が2人。片方がバタングランデ市民運動党の党首で、もう一方がシカン党の党首だ。まったく、シカン党などという党があるのだ。この村には。
 二つの「政党」の公約は全く同じである。チクラヨ行きの道路を舗装すること、バタンに水道を通すこと、電気を通すこと。この三つに尽きる。フジモリ支持も全く変わらない。バタングランデ市民運動党もシカン党も名前が違うだけなのだ。特にシカン党は「何でこんな名前にしたの?」と聞いても要領を得ない。要するに片方に「バタン」の名前をとられたから、というのが理由だろうと疋田は解釈する。
 だが、党首脳部には別のヴィジョンもある。
 それは日本からの援助だ。
 彼らは公約の最後にそのことを掲げていた。ドクトール島田を取り込もうということなのだろう。何しろ教授はこの村で最も尊敬される人なのだから。だが、教授は、政治に関わることを避けている。
 今回ペルーにやってきたとき、バタンやピティポやサランダの村の民家の壁などに「シカン」の名前が溢れていたのでどうしたことだと思っていたら、そういうことだったのだ。
 大票田バタングランデではどうやら「バタン党」の方が勢力が勝っているようであった。村民の七割以上がバタン党支持だ、とある村民は言った。見ていてもまあ、それくらいだろうなと思った。
 早朝、バタンの中心の例のロータリーには各政党のバスやトラックが集まる。支持者を乗せて投票所のあるピティポ村まで行くのだ。
 バタン党側のバスには「35」の文字が、シカン党には「5」の文字が書いてある。各々の政党の背番号のようなものだ。ここの住民は文字の読み書きが出来ない人が多いから、投票は用紙に書かれた数字を×印でつぶす形で行われる。この場合、35か5に×印をつけるのである。合計9人の候補者がそれぞれの数字を名乗る。21や25、27のポスターもそれなりに多い。なぜその番号を選ぶのか理由は分からない。何らかの由緒があるのだろう。
 有力なのはやはり、前記二人、35か5だ。
 投票しないと罰金だから、投票率は一〇〇パーセントに近い。
 ぎゅうぎゅう詰めのバスやトラックが街道を爆走する。スピードは遅いのだが、砂埃が凄いので文字どおり爆走である。砂で前が見えない。危険である。こんなに沢山のバスがどこに隠れていたのだ、というくらいの数だ。ピティポ村の前では渋滞が出来た。渋滞と言っても五、六台が断続的に連なる、といったくらいだが。
 軍隊が警備にあたっていた。何だ、と思ったが、これは必要に迫られてだということがあとで分かった。
 投票はハイテックである。身分証明書に選挙管理委員会のホログラフィのシールが貼られ、指に紫色の塗料が塗られる。この塗料は三日は蛍光色に光ってとれないのだそうだ。同じ人間が二度投票することがないようにである。
 投票が終わるとオヤジたちはこぞってビールを飲む。ピティポ村の食堂は大繁盛である。驚いたことに選挙前三日間は酒が飲めないのだそうだ。法律で決まっているのだ。出す店も無い。交通信号と違って割合、厳格に守られているらしい。法律制定の理由は選挙前に酒を飲むと、喧嘩が始まるからなのである。
 ピティポ村はお祭り状態だった。当たり前のように掻き氷や西瓜やジュースを売る屋台が並び、子供たちが集まり、投票が終わった連中も理由なくそこにいる。投票日の今日は政党がクルマを出すから、只で旅行が出来るという訳なのだ。家族連れが多い。
 投票完了が午後三時、結果が出るのが六時である。早い。
 その三時間でオヤジたちは完全に酔っ払う。我々の周りには、つきまとう変なオヤジや、選挙の不正を訴えるオヤジや、爺さん、婆さん、娘をしきりに見せたがるオヤジなどがいる。
 子供とおばさんたちは西瓜をこれでもかと食べる。皮はその辺にぽいぽいと捨ててしまうからピティポの町は西瓜の皮だらけになった。一度踏んづけて滑ってしまった。バナナの皮などですってんころりんなどというのは漫画の中だけの話かと思っていたら、この状態ではそうなる。バナナではなく西瓜ではあるが。
 我々取材陣は(と言っても二人)バタンに戻った。
 オヤジたちは選挙速報をラジオで聴きながらビールを飲んでいる。誰もが35、つまりバタングランデ市民運動党の勝利を疑わない。彼らはバタンの外に出ないから、そうとしか見えないのだ。
 だがどうかな。ピティポ、サランダ村ではシカン党支持はかなり多かったように我々は見たのだ。
 バタングランデには投票を終えたバスが続々と帰ってくる。
 その中で、五時過ぎに帰ってきたバスは異様な盛り上がりを見せていた。みんなが候補者の名を叫び、拳を振り上げながらやってくる。
 バタンにいた連中は「勝った」と雄叫びを上げ、バスに駆け寄った。だが、よくよく聞いてみると、どうやらよい知らせではない。「負けたんで自棄になってるのだ」とのことだった。勝ったのはシカン党。驚きの逆転勝利だった。
 バタングランデは一気に静まってしまった。
 シカン党の連中も静まっている。バタン村では少人数だから、ちょっと喜べないようだ。
 ぶつぶつとオヤジたちはビールを飲み続けていたが、三〇分もたつと不穏な空気が漂ってきた。
「選挙に不正がある」と誰かが言った。
「あんな奴は認めないぞ」と別の誰かが言い始めた。
 そして言い出した人間を人々が取り囲み、シュプレヒコールが起こり始めた。人々はどんどん集まり、おばさんたちや子供たちも含め二〇〇人はいただろうか「今からシカン党の連中に抗議に行くぞ」というおじさんの声に皆がぞろぞろと民族大移動を始めた。
「ラライン!ラライン!(候補者の名前)」のかけ声に全員の興奮が高まっていく。
 そこに5の数字を書いたバスが通りかかった。
 連中はバスを停め、バスの車体を叩いた。石を投げる輩もいた。危険である。一触即発だった。
 35のバスがちょうど後ろからやってきて、それを迎えにいくために戦列から離れたのがいたのと、連中のリーダー格がさすがに「やめろ」というようなことを言ったことで何とか収まった。
 ピティポでは乱闘騒ぎもあったそうだ。
 禁酒令も軍隊も納得できるのである。
 それから当のラライン候補がバタン広場に登場し、泣きの演説をした。「我々は敗北したわけではない」の言葉に聴衆が熱狂する。またまた危険な状態になる。
 真っ暗になっても熱狂は続き、あまりの喧しさに教授も宿舎から顔を出してきた。
 教授と疋田との会話
教授「何事でござるか」
疋田「貴公の名付けたシカン党が選挙に勝ったのでござる」
教授「拙者が名付けたわけではござらん。勝手に名乗っているのでござろう。それにしてもシカン党はまこと騒がしき輩どもであるな」
疋田「騒がしいのは負けたバタン党でござる」
教授「なんと、負けた方がかく騒ぐとは如何なるものか」
疋田「一揆も起こしかねない勢いでござる」
教授「なにゆえか」
疋田「拙者もわかり申さん。ただシカン党なる輩には『ハポン国からの援助を取り付ける』と呼ばわる者どももいると拙者は存知申す」
教授「何、それは一大事。拙者もハポン国出身ゆえ、我が方にもそのごとき陳情更に増えると申すか」
疋田「さよう。貴公の元にこそ、あまた押し掛けるものと拙者は考える」
教授「疋田氏(うじ)、貴公の東京放送にて何とかならぬものか」
疋田「ならぬ」
教授「しからば拙者は如何すればよいのか」
疋田「貴公が名付けた文明の名を改名するが佳いかと存知申す」
教授「はてそれは妙案。それならばシカン党との関係も切れるでござろう。しかしてシカン文明の名を何と?」
疋田「シカト文明となすべきかと」
 チャンチャン
(ごく一部を除き完全なフィクション)

 さて月曜日がやってくる。親指カメラの準備もできた。期日は迫っている。
 
 95/11/13

 小川様、西野様、穴水様

 まずはこれを送ります。昨日のことが書いてあります。二時間以内には次号が行くと思いますので、チャンネルはそのままでお待ち下さい。

 これを書いているのは本当は一四日である。昨日は不覚にもベッドに寝そべっているうちに眠ってしまい、起きたら朝の六時五〇分であった。しかしながら、昨日に関しては書くべきことがあるので書く。
 中央墓室は三メートルに達した。そしてその底に接する壁から新たに布が出てきた。布と同時に例によっての竹の繊維のようなものも出てきた。各々のスタート地点はまさにこの地下三メートルの地点である。ここを出発点としてそれぞれは下へ下へと向かっている。
 つまりこの墓の構造は、こと中央墓室にいたっても二重構造になっているのだ。この3メートルの地点で一つの構造は終わり、ここからさらに別の構造が始まるということなのだそうだ。
 以下、例によって教授と疋田との会話。今回は脚色無し。ただし副音声、疋田の独白付き。
疋田「ということは、どういうことなんですか」
教授「残念でしたね、疋田さん」
疋田「え?(げげ、やばい)」
教授「疋田さんのいるうちに出ると思ってたんですがね」
疋田「はあ、じゃあ、これから下にまだまだ続くと、、(まあ、素人目に見ても続くわな)」
教授「あと三メートル以上続く可能性もありますね」
疋田「ははあ(パーティまでには黄金一つは必ずって言ったのになあ)、水は大丈夫なんですか?」
教授「大丈夫です」
疋田「はあ、そうですか(何でなんだ)」
教授「もともと掘り出した地点が、古代の地表面かどうかは分からないのです。私は古代の地表面は現在のそれより三メートル半は低いと見ていますから、現在の底の地点もまだ一一メートルちょっとというところでしょう」
疋田「はあ(なんじゃそりゃ、聞いてないぞ)」
教授「ですから水はまだ出ません」
疋田「はあ(そりゃ出ないに越したことはないけどさ)」
教授「疋田さんの放送の日は決まってるんですか?」
疋田「今月の二九日です」
教授「動かせないのですか?」
疋田「動かないそうです」
教授「じゃ、駄目ですね」
疋田「はあ(あっさり言うなあ)」
教授「疋田さんが帰ったあとはどうなさるんですか?」
疋田「東京から小川部長が来ると思うのですが」
教授「じゃあ、小川さんがいいところを持っていきますね。小川さん運がいいですね」
疋田「そういうことになりますね(だけどそれも分からないぞ)」
(以下、略)

 バタングランデは曇り空が一日中続いた。珍しいことに午後二時を過ぎると雨まで降ってきた。
 教授の表情は険しい。

 95/11/14

【一四日ペルー 通信 疋田 智 記者】
一部黄金製の冠、出土
朱に覆われた頭骨も発見さる

 だはは、先ほどのファクシミリで、何だかあまり良くなさそうなことを書いてしまいましたが、実はそうではないのでした。
 お待たせしました。小川さん西野さん穴水さん。状況は以下の通りです。まだまだ下に何があるかは分かりませんが、とりあえず本日は画期的な一日でありました。教授のおっしゃるように「黄金ざくざく」はそれほどには期待できないようですが、この墓は実に面白い結果になりそうです。謎は更にさらに深まります。お読み下さい。

 すっかり昨日の気分になって一三日分を書いたあと、さて今日のことを書くのである。東京をじらす、という意味あいも少々あった。島田教授の癖が伝染ったようである。
 ルームサーヴィスなどという洒落たものがガルサホテルにもあることが判明して、コーヒーを飲みながら書くことが出来る。画期的である。
 さて、本日も曇天が続いた。珍しいことだ。我々にとっては非常によい天気である。暑くないし、何よりも蜂が来ない。
 だが暑くない一日だったにしては、今日はことのほかビールが旨かった。その理由はこれから書いていく内容にある。
 懸案の中央墓室真ん中から西よりの、例の新聞紙で隠されたものをあらわにする作業から始まった。
 午前八時半。
 主にロレンス氏が中心となって、物体に付着した土を取り除いていく。
 なるほど、金色の光沢を持っている。それも今までのようにトゥンバガのところどころに金属光沢が見えるようなものではなく、土を取り除くと全体像が明らかに金だ。大きさは三センチ掛ける八センチというところか、レリーフも施されている。なにやら魚の目玉が描いてあるように見える。教授によると神聖なる猫科の動物だということだ。
 その物体が土の中から顔を出している。まだ全体は見えていない。物体の尻尾が中に残っているようだ。
 物体の下部と同時にまわりの残されている部分を掘っていく。
 午前一〇時半。
 物体の周囲が何やらおかしい。元々垂れ下がっていた帯状の布との関連性も出てくるようだ。トゥンバガの破片も沢山出てくる。中央墓室一層目(昨日の記述が正しいとして、三メートル地点までを一層目、それより下を二層目とする)の底に最後まで残されていた土の塊(一メートル四方)が次々と形をなしてくる。様子が変だ。
 午後一一時。
 疋田&下野、下に降りる。金色の物体がまわりの様子に圧倒されて、小さく見えてくる。帯状の布は墓室の南西のへりから北東のへりまで続いているようだ(北東の方面は土に隠れてしまってはっきりは見えない)。そしてその中央部にもっこりと今までになかった大きな塊が見えてきた。トゥンバガはある種の規則性を持って並んでいる。竹の繊維も見える。トゥンバガに伴って放射状に何らかの細い繊維の筋が多数見える。何なのか、これらは(図1)。
 教授と疋田の会話(脚色全くなし。オンカメラ)
疋田「何ですかこれは」
教授「無言」
疋田「今は解説はお願いできませんか?」
教授「出来ないっ」
 疋田にも何らかの予感がある。
 下野氏に「揺れる映像」を撮って貰う。トレンチのてっぺんから走り降りながらカメラを回し、中央墓室の直前で問題の物体にすばやいズームインである。こういうのが、後日、編集で役に立ってくるのだ。演出というやつだ。ドキュメンタリーなのに、ということで、こういうのを嫌うディレクターもいるが、私はこれくらいまではアリだと思っている。
 テレビの小さいモニターで映してしまうと、現実はあくまで淡々と進むように見えてしまう。だが、当事者の気持ちはそうではないのだ。それを映像で表現することも、私は事実を伝えていくことだと思っている。
 テイクツーまで撮って、やめた。ばたばたとうるさいからである。砂埃もたつ。
 教授は迷惑そうに、だが我々を無視していてくれた。
 午後〇時半。
 モノはどんどん形になっていく。トゥンバガの集まりの下に赤い壷状の物が見えてきた(図2)。
 午後一時。
 昼休みもとらない。教授はまわりをすばやく片づけさせ、写真を撮り始めた。シャッターのペースが早い。あっという間にフィルム二本分を撮ってしまった。
 教授と疋田の会話2(脚色全くなし。オンカメラ)
疋田「我々も中に入って撮っていいですか?」
教授「(間髪入れず)断ります」
 午後二時。
 まだ食事もとらない。ミゲル、エクトルの手練の士と、ロレンス氏、ラファエル氏の五人のみで、土をどけ、写真を撮り続ける。他の作業員たちはすることが全く無くなって、昼飯に入った。
 赤い壷状の物のまわりから土が無くなっていく。壷はつるつるである。赤色も鮮やかだ。ようやく疋田にも分かってきた。
 教授と疋田の会話3(同様)
疋田「先生、それ頭蓋骨じゃないですか?」
教授、こっちを振り向くも無言。
疋田「島田、先生?」
教授、無視。
 本日、発掘の見学に来ていたドイツ人織物学者、ヘイコ氏がこっちを振り向く。彼はホテルから同じクルマでここまで来ていたので、少々気安い。ブロオクンなイングリッシュで話をしていたのが役だった。
「(小声で)Mr. Hikita, I think that, , , it is a human bone.」
 彼は言った。
 午後二時半。
 教授と疋田の会話4(同様)
教授「我々はお昼を食べます」
疋田「そうですか」
教授「疋田さん、作業員が全員帰った後に、底に入って下さい」
疋田「はい」
 これ以降、疋田は悩む。作業員が帰るまでは、今いる地点(全体墓室の底部分)から出て行けということなのか、はたまた作業員がいなくなったら、底の底(中央墓室の底部分)まで見せてあげるよ、という意味なのか。
 当然ながら、後者として解釈する。
 もしもそのつもりでなくても、いいのだ。咎められたときは「あ、そういう意味でしたか」と言うしかないではないか。なるだけカメラを近くに接近させておきたいテレビ屋としては。
 午後三時半。
 トゥンバガの構成が見えてきた。明らかに格子状である。丸い。しかもそれは頭蓋骨状の物の上に被さってきている(図3)。
 午後四時。
 ミゲル、エクトル以外の作業員を漸く帰す。
 午後四時半。
 ミゲル、エクトルも帰す。
 教授は昼飯を食ってから後、図を描いてばかりだ。暗くなってきた。中央墓室の上からでは金属光沢も見え難くなってくる。
 午後五時。
 教授と疋田との会話5(以降、全てオンカメラ)
疋田「そろそろ我々も、、(下に、、、)」
教授「はい、どうぞ。気をつけて下さいね(異常に優しい)」
疋田「え?(意外)ありがとうございます」
 下野氏、疋田の順で中央墓室の下に降りる。
 そばで見ると、最初から見えていたてっぺんの部分は流石に金だ。新品同様である。あまりに金の板然としているので、むしろ安っぽく見えるくらいだ。
疋田「先生、解説していただけますか?」
教授「はい」
疋田「出来れば下で、、」
教授「はい」
 教授降りてくる。
疋田「今日は何だか画期的な日だったようですね」
(以下、抄)
教授「そう言って良いと思います。朱に塗られた人間の頭骨が出ました。そしてその上に頭飾りのような物が被さっています。大きな物です。ただし一番上の金の部分を除いては銅で出来ていますから、このようにかなり腐食しているわけです。
 私はこれが墓の主体である可能性もあると思っています。ですが疑問点も多くあり、断言できません。むしろそうではない可能性の方が高いかも知れません。
 墓の主体である可能性を示すのは、このように頭骨全体に塗られたと思われる朱です。
 しかし、そうではないことを示す物が数多く出土しています。
 一つ目はこのレヴェル(同じ層)の各コーナーから出たリャマの骨です(主体が動物と同じレヴェルから出てくるとは考えにくい)。
 二つ目が、この骨がまとっている布と、昨日から見え始めている布、竹繊維です。これらは間違いなくさらに下に続いています。
 三つ目は黄金の量が少ないこと。黄金部分はこの頭飾りの先だけでしかありません。
 その他にもありますが、まだ言うべき段階ではありません」
疋田「この遺体はどういう姿勢をしているのでしょうか」
教授「全く分かりません。座っているのか、寝ているのか。(だが、その後のオフカメラで、彼はこう言った。『恐らく座った体勢でしょう。ただし逆さまではありません。きちんと座っていると私は見ています』これがオフカメラなのが残念。なぜなら、これ以降のオンカメラインタビューでは、教授はそのことを念頭に入れながら話をしているからだ。でないと意味が通じない)」
疋田「顔はどこですか?」
教授「(少々間があって)それが理解できないのです。頭骨の見えている部分は、後頭部です。ここにはシカン伝統の変形の部分があって間違いありません。ということは、この遺体は真西を向いているのです(!)」
疋田「先生の仮説と違いますね」
教授「ええ、違いました。しかし、この墓は何があってもおかしくない墓だと私は考えています」
疋田「我々にとっては、やっと出たあ、という感じなのですが、先生の感想はいかがでしょう」
教授「何も言えない、というのが私の感想です」
疋田「学問上の感想ではなくて、先生の気持ちとしては、、」
教授「分からない、というのが感想ですね(ちょっと笑う)」
疋田「これからの作業としてはどうなるのでしょうか」
教授「疋田さんも予想されているとおり、これから数日は記録ばかりが続きます。テレビを撮られる側としては面白くないでしょうけどね」
疋田「いいえ(充分です)」
(以下、略)
「スペースJ」に関しては本当に充分である。
 私はやはり一九日に帰らざるを得ないだろうが、その後は大団円に向けてまっしぐらだろうと思う。
 謎は新たな謎を呼ぶ。これから先が実に楽しみになった。
 後にやって来る人間が羨ましい。

 95/11/15

 小川様、西野様、穴水様

 残すところ発掘取材に関しては一日だけです。私の頭は既に「編集モード」に入ろうとしているのですが、ご存じの通り、こちらにいると発掘の雰囲気に飲み込まれてしまって、客観的になれません。私は今は「これでいける」と思ってはいるのですが、こういうときに限って、編集の時に「ぎゃあ、あれを撮っとけば良かった」となるものです。
 あれは撮ったか、これはどうだ、など余計なお世話的なものでも結構ですから、ご教唆下さい。
 西野さんへ返信。タイムコードの件は、カメラ機材の都合上、リアルタイムには出来ないそうです。水銀電池が入らない古いタイプのものだそうで、ご了解下さい。 

 ガルサホテルというホテルは、今現在の私はかなりのレヴェルで気に入っている。
 ものが盗まれるなどという心配をする必要がほとんどないし(今の所は全然)、従業員はフレンドリーだし(特にベッドメイクや駐車場管理などの人々)、動物は沢山いるし、こじんまりと割に清潔だし、お湯は出るようになったし、調度品に木製のものが多いし、ルームサーヴィスもあることが分かったし、でである。
 ところがやはりたまらないのが、まずは例のファクシミリだ。
 最近はかなり通るようになった。ただし、ガルサホテルの経営努力のおかげというわけではない。ただひとえに私のボタン押しがマエストロの域に達したということであろう。
 そしてやはり絶望的なのはもう一つの方だ。英語を理解する従業員が、夜になると全員帰ってしまうのである。
 せっかく判明したルームサーヴィスについても、コーヒーをお願いね、というのが実現化されるまでに一一〇分もかかってしまった。
 今日の発掘は記録のみであった。予想通りである。仕方がない。
 夜になって、バタングランデ村の先生の宿舎にお邪魔して、ロングインタビューを行った。気になったせりふが一つ。
 教授と疋田の会話(脚色無し、ほぼ先生の独白。抄)
教授「この墓は本当に複雑な墓です。今まで出会ったことも、伝え聞いたこともありません。規模で言っても、例えば全アンデスの様々な遺跡の中でも一番だと考えています。
 私は、このような墓を、色々に仮説を立てながら掘ろうというのは、考古学者の思い上がりかも知れないとさえ思います」
疋田「ほお、それは、、、」
教授「(遮るように)だから、私は今、責任感でいっぱいなのです。私一人で本当にうまく掘れるだろうか、大切なデータを取りこぼさないだろうかと。
 このようなものを調査できるというのは、一人の考古学者の一生に一度しか訪れないチャンスだと思っています。だからこそ今の私はこの墓のことでいっぱいなのです。
 本当を言うと、疋田さんの午後のインタビューも迷惑なのです。私は今の時間の一分、一秒も惜しいのです」
疋田「無言(げげ、またもとに戻ってしまった)」
教授「無言(最近ちょっとしつこいからな *疋田解釈)」
 しかしまあ教授の本音なのであろう。でも私の取材日程は今期に関してはあと三日である。我慢して貰おう。わはは。
 後から来るディレクターが大変だ。小川部長ではなく、「報道特集」の秋山氏だそうだ。まあ、それはそうだ。小川部長はただでさえ、外信部の中で「シカン部長」と呼ばれ、顰蹙を買っているそうだから。なんとなれば、外信の仕事にシカンの仕事を優先させているのだそうだ。
 本日は明治学院大学の熊井助教授が見学にやってきた。良く喋るフレンドリーすぎるほどにフレンドリーな垂れ目の助教授である。名前の通り、熊のぷーさんのような容姿だ。島田教授をつかまえて、およそ四〇分語らっていた。その間、発掘作業は中断した。
 私と下野氏は「うわあ、教授いらいらしてるぜ」と言い合っていたが、一方で多少痛快でもあった。我々には到底そのようなまねは出来ないからである。だが痛快ではすまないのだ。その直後に上記のインタビューの台詞だ。困ったものだ。
 まあ良い。それにしても不可解なのは東京の反応だ。前日の内容にも関わらず、返事のファクシミリが何も届かない。拍子抜けだ。どうしたことだ。

 95/11/16

 今日も記録の一日となった。だが、変化も多少ある。横穴が全て掘られた。西側に残された二つも掘られた(図1)。遺体は無かった。またも教授の打率が落ちた。
 だが、別に構わぬ。三割越えれば大バッターだと思う。ましてや考古学である。サンプルが二つしかないシカンの発掘である。当たらなくて当然である。
 私としては当てることよりもむしろ、そんなに確率良くなくてもいいから、その考えに到ったプロセス、そしてそれが修正されていく過程をつまびらかにしていただきたいと思う。
 中央墓室の底にも多少の変化があった。図2の通りだ。骨は皆リャマである。

 明日には義井氏が東京より戻ってくる。無事にランドクルーザーを返還したかったのだが、残念なことに本日、後部タイヤが裂けてしまった。パンクなどというものではなく、チューブなどは断裂である。輪っかではなく一本のゴムになり果ててしまった。仕方が無くタイヤを丸ごと買い換えた。それにしても毎日この道を往復するのはクルマに与えるストレスも大変なものではないか。毎日跳ね石などで傷がついていく。ランドクルーザーの寿命もかなり縮まっていると思う。私がクルマのオーナーだったら、ここに用いるのは嫌だな。義井氏ににもその辺の何らかの補償は必要だと思う。

*クルマのことについて、やたら書いているようだが、さらに付記。
 パンクの修理は手間取った。と言うより、裂けたタイヤを外すのに手間取った。
 このランドクルーザーは、一つのタイヤを外すために回さなければならないボルトが五つあるのだが、その五つのボルトのうちの一つが、普通の六角のボルトとは形状が全然違うのだ。
 何だか星形の奇妙なもので、どうにも普通のレンチで回すことが出来ない。
 下野氏と私は六角レンチを手にしたまま、呆然とした。
 パンクした地点は、サランダとフェリニャフェの間にある「アミーゴ砂漠」の真ん中だった。どちらに行くにしても二〇キロ以上の砂漠である。
 何故このような意地悪なことがしてあるのか。
 よく見ると、それ以外の三つの車輪についても、星形ボルトは必ず一つ入っている。
 下野氏が気づいた。
「疋田さん、これは盗難防止のためのボルトですよ。これ専用の特殊なレンチが必要なんです。多分、このクルマのどこかにレンチがあると思いますよ。恐らくは、思いっきり分かり難いところに」
 それは正解だった。下野氏はリマ在住でペルーの生活には慣れっこの筈だったのだが、クルマを持っていないので、気づくのが遅かったのだ。
 下野氏と私は、ランドクルーザーのあらゆるところを掻き回し、捜索し、やっと変型星形レンチを発見した。ちなみにそれは全部座席の下の、さらに手を回したところにあった。
 それでやっとタイヤの交換が出来たのだ。良かった。
 ただ、我々がランドクルーザーを捜索していると、変なものが出てきた。
「TAXI」と書かれたステッカーだ。
 この国ではクルマを持つ人は誰でもタクシーの運転手になることが出来る。特に規制などはないのだ。ただ単に、自分のクルマに「タクシー」と書かれたステッカーをペタンと貼るだけである。
「義井さん、アルバイトしてたのかなあ」
 下野氏は言った。
「ランドクルーザーで?」
「うーん、高級タクシーとして?」
 後に義井氏に聞いてみると、義井氏は笑いながら「さあ、どうでしょう」と答えた。
 この国のタクシーは、ほぼ全部がボロボロのワーゲンか、ヒュンダイか、古いフォードだから、このステッカーを背の高いランドクルーザーの窓に貼り付けたくらいでは、誰にもタクシーと認識できまい。
「市場で売っていたから、洒落で買ったのさ」と義井氏は笑った。
 このランドクルーザーは確かに最新型で、高級で、格好良い。
 チクラヨの街を走っていても、このクルマ以上に高価であろうクルマは全く見かけなかった。だが、同時にそれは盗難に遭いやすい、ということでもある。
 タイヤを盗まれないように星形(これは義井オリジナルの形で作って貰ったのだそうだ)ボルトを付けるのは勿論のこと、クルマ本体が盗まれないように、何だか沢山、細工がしてある。
 その結果として、そもそもこのクルマに乗るには儀式がいる。
 キーにぶら下がっている、何だか小型のラジオのような機械(ボタンが三つ付いている)を、まずは適切に操作しなくてはならない。
 そして、その上で、ドアを開けてから一〇秒以内に、座席の下のとんでもなく分かり難いところにある防犯ベルのスイッチを押す。
 一〇秒以内にこの一連の操作が滞りなく行われないと、ボワーンボワーンピューピューと、ペルー標準の大音量が響きわたる。
 それを終えた後、イグニッションを回してエンジンをかけるのだが、その際も、何だか変なところにある変なボタンを押しながらでなくてはならない。これを怠ると、一〇〇メートルくらい走った地点で、エンジンはいきなり停まってしまう。そこで、慌てふためいて変な操作をすると、またボワーンボワーンだ。大変なのである。
 だが、これは義井氏が異常に用心深かったり、疑り深かったりするからではない。ペルーのクルマはこれで標準なのだ。
 例のボロボロのワーゲンにも、この種の機械は付属しているそうだ。
 なるほどねえ。
 
 95/11/17

 小川様、西野様、穴水様

 発掘はまたもや急ピッチで進んできています。
 本当はあと一カ月、いや二週間ここにいれば完璧なドキュメンタリーが出来るのかも知れません。ここで帰るのが至極至極残念です。
 三月には凄いのを作りましょう。
 私は三たびここにやって来たいと思っています。
 穴水さん、色々なものをありがとうございました。下野氏はまたもや「穴水女史とはどのような人だろう」と想像をたくましくしています。
 この部分を書いているのは実は一八日朝なのですが、時間がないので(図1)(図2)に関しては後で描いてお送りします。
 それから以前にもファクシミリに書きましたが、事業部石飛氏に詳しい事情をお知らせ下さい、とお伝え下さい。
 教授の話では丑野教授のチームならば今すぐにでも修復作業を始めた方が良いとのことでした。

 私にとっての発掘取材最終日である。
「スペースJ」に関しては先日の「頭飾りと頭骨発見」で終わろうと思っているから、一昨日からの取材内容は三月の特番に向けてのものとなる。
 今日は頭飾りに伴う帯などが除去された。
 頭飾りの様子が分かってくる。銅で作られた部分が多い(図1)。さらに周りからも金属片のようなものが見つかってくる。午後には何らかの形になってくる。ロレンス氏などが「耳飾りかも」などと言い始める。
 仮面のようなものも見えてきた。ただし教授は仮面だとは明言しない(図2)。
 見つかった頭骨がこの墓の主体である可能性が高まってきた。
 午後になって島田教授の最後のインタビューを撮った。ちょっと長いものとなった。
 教授と疋田の会話(抄)
教授「この墓の主体は、あの頭骨である可能性が高まってきました」
疋田「そうですか」
教授「聖杯なども出て来ようとしているのです」
疋田「はあ、私には見えませんが」
教授「良く見ればわかりますよ。この墓はやはり中期シカンの特徴を色濃く持っているということです。ただ、私の予測は、ことごとく裏切られた形でです。
 私はこの墓は東のものと対応して、全てのものが東を指向して成り立っているものと思っていました。ところが実際掘ってみると、西向きです。頭骨も西を向いています。これは中期シカンの貴族の埋葬の習慣なのかも知れません」
疋田「西方極楽浄土、のようなものでしょうか」
教授「そのような思想があったのかも知れませんね。
 私は研究が足りなかったと思います。
 元々このような種類の大規模の墓は『墓があるから掘ってみる』とか『金が出そうだ』などということで掘ってはいけないものです。きちんとしたデータを集めて、しっかりした計画の元に掘るべきです。
 私はそうしてきたと思っていました。ですが、この結果を見ると、私の研究も足りなかったと言わざるを得ません。この墓から出てくるものは私の予想を覆すものばかりでした。分からないことだらけです。
 私はこの結果を基にして、今後3年間をアメリカで発掘品の検証、分析に費やしたいと思っています」

 (中略)

疋田「するともう、シカンの墓を掘ることは無いのですか」
教授「いや、全く無いと言っているわけではありません。墓を掘る必然性が生まれたら、その時は掘るかも知れませんよ。
 でも、今回の発掘で、私ももう若くないと知らされました。もうすぐ四七歳ですしね。腰を悪くしたりもしましたし(ちょっと笑う)。
 ご存じの通り、発掘作業はハードワークです。肉体的にも、精神的にもね。
 しばらくは研究室の中の研究、としたいと思います」
疋田「フィールドに出ないというのは、ちょっと寂しいというか、名残惜しいとは思いませんか」
教授「(少々質問の意図を誤解)いえ、そう思ったら考古学者はおしまいなのです。
 自らの手で発掘した遺物を、自らの手で修復したりしていると、何だか自分のもののような気がしてしまうことは確かです。ですが我々は研究を終えたら、しかるべきところに返還しなくてはなりません。そして多くの人々にその遺物の意義を伝えて行かなくてはならないのです。
 私は学者ですから、その義務があると考えます。疋田さんの取材にしても(多くの人に伝えていくという意味あいで)そうでしょう」
疋田「シカンの遺跡はまだまだ沢山残されていると思うのですが」
教授「そうですね」
疋田「例えば(後ろを振り返って)、このロロ神殿にしても、まだピラミッド自体が何であるのか分かっていませんよね」
教授「そうです。恐らくこれは最初の王のような人の墓だとは思っていますが」
疋田「先生がいつの日かこれを掘る予定はあるのですか」
教授「ありません」
疋田「どうしてですか。これこそ核心ではないですか」
教授「これはペルー人の手で掘るべきだからです。私が掘るべきではありません。
 ペルーでも考古学者が少しずつ育ってきています。このようなものはその国の国民が自らの手で掘らなければならないのです。
 例えば、外国人が日本の仁徳天皇陵を掘ったりしたら、日本人は嫌がるでしょう?
 ペルー人だって同じですよ。
 ただ、二〇年後か、三〇年後、今は学生のペルーの考古学者たちが育ってきて、この神殿に着手しようとしたとき、その時、私が必要とされることがあるのならば、お手伝いしようとは思っています」
疋田「先生はあの神殿の下に必ず何かがあると思っていますか」
教授「はい。(カメラズームアップ)思っています」

 インタビューしながら私の頭の中では音楽が鳴り始めていた。何だか感動的である。これぞ学者である。
 義井氏が東京から帰ってきて、今日から取材に合流した。穴水女史からの漬け物その他の日本食などを沢山携えてきた。発掘現場付近で開けてみた。有り難いことである。蜂避けのスプレーもあった。
「穴水さんのチョイスは何だか上品なんだよなあ」
 と彼は言った。
「我々の食べ物は、もっと下品なものの方が良いかもしれませんですねえ」
 と、私も同感であった。
 だが、私はこれを食べることはもうない。明後日には帰ってしまうからだ。
 この現場を訪れることも、今日が最後になるのかも知れない。
 発掘現場からの帰り際に、記念写真を撮った。義井氏と下野氏とのスリーショットである。この二人には本当に世話になってしまった。一〇〇〇歳のアルガロボの木の前で撮った。注連縄を着けたら似合いそうだ。いつか遠い未来にここが観光地化されることがあったら、この木も何らかの装飾が施されるのだろう。
 フェリニャフェ(バタングランデの発掘現場とチクラヨのちょうど中間地点の町)からチクラヨに至る道が、何だか日本に似てると思えてきた。
 ここにやってきたばかりの時分は、何とも地球の果て、何という発展途上国、何もかもが日本とは違うよ、などと思っていたが、実はそっちの考えの方が違う。
 良く見れば似ているところだらけだ。
 人々が夕刻の光景の中を歩いていく。リヤカーを引っ張る者、牛に乗っていく者、トラックの荷台に乗っていく者、老若男女、様々だ。人々の人種も様々だが、やはりアジア系の顔が多い。何だか懐かしい顔に見えてくる。
 そして同じく懐かしい光景の中を、それらの人は生き、道を歩き、クルマで走る。田舎の風景は私が育った日本だ。畑の中にほどほどに舗装された一本道があり、その横に電柱と電線が続く。
 アスファルトが薄いから、道路には轍が目立つし、所によっては剥がれている。道の土が露出している。
 だが、例えば二〇年前、日本で我々はこんな風景を確かに見ていた。私は八歳だった。あの頃を過ごしていた東京、三鷹市でも、雨が降ると多数の水たまりが出来た。泥濘もできた。水たまりの表面にはアメンボもいなかったか。小学校に通う道は、全部は舗装されていなかった。
 その後、私は宮崎県に移り住み、私にとっての道路の舗装率は更に下がった。私が小学生だった頃、日本の道路の舗装率は驚くなかれわずかに三〇パーセント前後に過ぎなかったのだ。わずか二〇年前、つい最近の話だ。
 家に電話がひかれたのはいつだったか。五歳の時、つまり二三年前の記憶だ。カラーテレビが家に来たのは四歳。二四年前だ。クーラーにいたっては高校生の時だった。一〇年ちょっとしか経っていない。
 クルマでバタングランデとチクラヨを往復する中で、自称六〇歳の梶谷おばさんが窓の外の光景を見ながら「昔は日本もこうだったのよ」と何度も繰り返した。彼女が「昔」をどの時点での言葉として使っているのかは分からないが、きっとそうなのだろう。みんな忘れてしまったような振りをして、昔から日本は「先進国」だったよ、というような顔をしているが、実はそうではなかった。まだ三〇にならない私にさえ日本がこうだった頃の記憶が確実にある。
 途上国にやって来ると、現在での表面的な見た目の光景の違いに驚き、すぐに「別世界」との感想を抱きがちだが、現地の人々とそれなりに知り合ってくると、段々分かってくる。
 真面目でいつもニコニコ笑っているエクトル氏のようなおじさんは、昔の日本には沢山いなかったか。「もっと教育施設を整備しなくては」と憤る熱血の中学教師氏は、かつての日本に無くてはならない人ではなかったか。
 バタングランデ村の「住宅地」の裏に田圃がある。
 雨が少ない地域だから、水稲の田でなく陸稲のそれだ。畦道が縦横に走り、小川が流れている。その小川には水車があった。大きな空き缶を車輪状に組んだものだ。その水車が水を分配していた。このような水車が、宮崎県日南市には沢山あった。水辺には雑草が生い茂り、田圃の近くの小川の匂いがした。初夏にぷんと匂う何だかわくわくするような匂い、小学生だった私はこの同じ匂いにわくわくしたのだ。田圃の向こう側には、広大なサトウキビ畑が広がっている。風になびいてざわざわと音がする。青空の下、緑が眼に痛いほどだ。
 こんなことを考えるのも、放送が目の前に迫ってきて、頭の中が「編集モード」に入っているからだと思う。そうなると何だかあらゆるものが意味ありげに見えてきてしまうのだ。
 この仕事を続けていると、取材から帰ろうとするときには、頭が自然になにがしかの辻褄を合わせようとしてしまうのだろう。

 95/11/18

 今日の発掘はお休み。
 最後のバタングランデ村は、誕生パーティだった。教授の誕生日が明日で、それを一日繰り上げたのだ。そして、偶然なことに私の誕生日が今日だ。
 発掘調査団の人々とモーリおばあさんが、ケーキを作った。
 奇跡的なことにシャンパンまであった。
 段ボール箱から首だけ出し、きょろきょろ周りを眺める鶏が、連れ込まれた。かわいそうだが、彼は今日の宴のために招聘されたのだ。
 二九歳になる。
 今日は本当に言葉がもどかしかった。
 皆が「おめでとう」というようなことを言ってくれているのだと思うが、さっぱり分からない。
 発掘はまだまだ続くのだが、私はテレビの勝手な都合で帰ってしまう。今度生まれ変わったら、考古学者になろう。そうすれば、ここに残れた筈だ。
 さようならバタングランデ村。

 95/11/19

 リマだ。脱力。

 95/11/20

 機内だ。焦りながらも脱力。


 さて、東京に帰ってきた。ペルーに行っている間に夏と秋がすっかり終わってしまっていた。TBSでは、待っていた西野氏が奪い取るようにVTRを引き揚げていった。彼の編集用にダビングするのだ。西野氏は私の放送後四日後の日曜日の昼間の特番を編集する。競作となるのだ。
 私の方の放送は水曜夜九時の「スペースJ」で、放送時間は枠込みで(VTRとスタジオ部分を一緒にして)四五分。「スペースJ」の特集枠である。四五分とは言っても、CMとスタジオが入るから、VTR部分の総尺(長さ)は三〇分というところだ。
 これを一週間で作らなくてはならない。これが実に過酷な作業となるのだ。
 テレビの現場に立って初めて分かることだが、特にドキュメンタリー番組などは、取材が終われば仕事の八割程度は終わった、という気分になるが、実は番組の制作の中で、最も過酷で頭を使い、かつ技術が要るのがこの編集作業である。それだけに楽しい作業であるとも言えるが、まあ、それは「振り返って考えれば」の話だ。作業にあたっているその時は「早くこの時間が過ぎ去ってくれ」という種類の苦痛しか感じない。締め切りがある話だから、後になればなるほど焦っていく。髪の毛の抜ける思いだ。
 特に今回のように、取材テープが異様に多い場合はそうだ。
 リマ空港で下野氏から撮影済みのベーカム(放送用ビデオテープ)の箱を渡されたときから嫌な予感はしていたのだが、東京に帰ってきて、前回取材分と併せて数えてみて軽い眩暈を覚えた。八〇本ある。
 ベーカムは通常二〇分テープを使用するが、長期海外取材の場合は三〇分を用いる。当然今回も三〇分テープで、つまり三〇分かける八〇本で二四〇〇分。つまり合計四〇時間分もテープは回っているのだ。
 まずは単純にこれを見ることから始まる。
 これを「ラッシュ」と言う。見るだけでなく撮影されているあらゆるシーン、インタビューでの台詞をメモしていく作業だ。島田教授が、作業員たちが、どう言ったか、何をしたか、そのカットが何本目のテープの何分何秒目にあるか、これが記録されてないと編集作業が出来ない。取材現場には勿論自分もいるから、どんなシーンがあるかは覚えてはいる筈なのだが、カメラを通すと、画面上に現れるものは全く別物になってしまう。ズームイン、アウト、パン(上下左右)フォーカスイン、アウト、撮り方によって使い方も変わってくるのだ。それぞれをメモしていく。
 スペイン語が沢山混じるから、通訳も必要になってくる。通訳氏は西野氏と穴水女史があらかじめ手をまわしていてくれた。
 大学ノートをひろげ、ビデオを送ったり、巻き戻したりする。目が痛くなる。ひたすら孤独で疲労する作業だ。私はこのプロセスが一番嫌いだ。が、やらなければ編集が出来ない。
 メモしながらだから、丸々三日かかった。この間、家には帰らない。取材現場で「あれ撮って、これ撮って」と言い、長々とカメラを回していた過去の自分自身を少々憎む。
 さて、それが終わって、次はナレーション原稿を書き出す。
 最初は時系列に則って、最初からどんなことがあったのかを余さず書いていく。五冊になったラッシュノートから、間に挟み込んでいく生音(ナレーションでなく、実際にそこで発された音。インタビューが多いが、例えば土の崩れる音や鳥の鳴き声、街の喧噪など効果的に使えるものは沢山ある)を決定していく。
 で、その後、それをシャフルしていく。大まかな構成を事前に考えておいたから、それに当てはめていく。何となくの番組の構造が見えてくる。スタジオがどのあたりに入って、コマーシャルをどの辺に入れて、というのも何となく見え始める。
 で、一日かかって出来た原稿はとてつもなく長いものになる。二時間スペシャルが出来そうなものだ。
 今回のVTRは三〇分弱だから、これでは到底放送できない。
 で、これを削っていく作業となる。
 最初に原稿を読み直してみて、かつその部分に当てはまる映像を眺め直してみて、冗長な部分を削る。これで半分にはなる。これは楽だ。
 だが、問題はそこからで、半分になった原稿を、何度読み直してみても、何だか珠玉の文章、もはやこれ以上削りようがないってな感じに見える(見えるだけ)。
 さらに、苦労して撮った映像なのだ。「これが無くても意味は通じる」という部分にしたって、削りにくい。
 だが、そういったものを涙を飲んで、落としていくのだ。
 例えば、第一章の小山に登って撮ったバタングランデ村のロング。あれも落とした。映像が思ったほど映えなかったからだ。
 しかし、それでも、それぞれのシーンの中でちょこちょこと短くしていくだけでは、全体の分数は、そんなに短くならない。
 で、ブロックを次々と落としていく。今回の場合、選挙の部分を全部削除した。間に挟まるエピソードとしては、私は面白いと思ったのだが、いかんせん、全部説明しようと思ったら、少々長い。五分かかる。
 シカンシリーズが既に放送してきたもの、つまりひたすらに穴を掘っていく作業のみのVTRにはしたくなかったから、こういうエピソードこそが魅力的だと思っていたのだが、仕方がない。落とす。
 それでもまだ多い。さらに落とす。オリビアちゃんのパートなども、ごっそりと無くなってしまう。悲しい。だが、仕方がない。放送日は刻々と迫ってくるのだ。
 原稿が何とか三〇分程度に縮まると「プリ編集」という作業に入る。文字どおり、編集の前段階の編集作業だ。
 何となれば、これは経費節減のための手法なのだ。
 赤坂のTBSの周囲には、沢山の編集プロダクションがあるが、デジタルテープを用いた本編集の際には、それらのプロダクションのブースを借りることになる。そのブースのレンタル料は、オペレーターの人件費込みで一時間当たり五万円、もしくはそれ以上もするのだ。だから、本編集はなるだけ少ない時間に押さえる必要があって、ブースに八〇本の素材テープを持っていくわけにはいかないのである。
 で、局内でプリ編だ。
 このプリ編で、ナレーション原稿とあわせつつ、インタビューなども用いつつ、ある程度の形が決まっていく。CMとスタジオが入るから、VTRは五本に分かれることになった。
 だが、このプリ編をやっていると、悩むのだ。
「あ、ここは説明が必要」「あ、ここはエクトルさんのインタビューもう少し聞かせたい」「ここの教授の、この表情だっ」などとね。
 結果として、せっかく三〇分程度にした原稿が、また滅茶苦茶になり、結局一時間スペシャルものになってしまう。これではいかんと、ベタベタに書き直した原稿が、パソコンの中に溢れる。
 パソコンの中に書き起こした原稿のタイトルは次の如くだ。
 シカン原稿
 シカン原稿2
 シカン原稿3
 シカン原稿改
 シカン原稿改2
 シカン完成原稿
 シカン完成原稿さらに改
 これで完成、シカン
 本当の完成原稿
 さらに削った完璧ヴァージョン
 本物の完璧ヴァージョン
 2と4を取り込んだもの(*意味不明)
 完成稿
 完成稿ショート版
 これぞ完成
 本当の完成
 本当の短縮版
 本編直前
 このプリ編に丸二日かかった。結局、私は「本物の完璧版の完成原稿は本編集の時に出来上がる」との根拠のない確信とともに、一時間弱のテープと一緒に、本編ブースに向かうことになった。本編集で、それを短くしていくつもりなのだ。
 さて、本編集のブースは豪華である。
 そして、二億円すると言われるその編集用機械どもに、出来ないことはない。
 テレビを見ていると、よく画面がグルンと回ったり、二つの映像がオーバーラップして出てきたり、画面がガチャーンと砕けたりするが、そういう「効果」を行ったりするのが、この二億円の機械どもなのだ。一種の大型コンピューターとCGモニターの化け物で、色、画面の角度などの補正から、モザイク掛け、画面転換、映像の合成まで、魔術のようにこなしていく。
 先に述べたような、場面の転換などに用いる「効果」「加工」をやることが多く、これらの効果をDVEと言う。
 ここで作業がだんだん楽しくなっていくような錯覚を起こす。
 何しろ目の前で、画面が完成品にどんどん近づいていくのだ。
 苦悩はプリ編段階まででもう充分、と頭の方が勝手に音を上げているので、一種の開き直りに似た状態になってくるのかも知れない。
 ドキュメンタリーだから、画面をグルグル回したりはしないが、オーバーラップ(「ディゾり」とも言う)はよく使う。このオーバーラップが「ああ、完成してきたなあ」という気になって気持ちがいい。
 さらに、スーパーインポーズ(字幕)を入れるのもここで、教授のインタビューの画面の下に「南イリノイ大学、島田泉教授」などという文字が、すうっと入りすうっと消えていくと、出来た出来た、とパチパチ手を叩いてしまう。頭も麻痺しているのだ。
 やがて、本編集を終える。
 終えてみると、奇跡的なことに、VTRは五本合計で三〇分以内に収まっている。
 何故だ?俺は天才か?などと思いながら、出来たVTRを局に持ち帰って見直す。すると、それは大いなる誤解であることが分かってきた。
 ナレーションが、思った箇所に、入らないのだ。長さが足りないのである。もう、この状態で頭はめろめろだ。
 で、再び、苦吟を始める。
「である」は「だ」に直してしまう。半秒縮む。体言止めを多用する。文章は下品になるが、この際仕方がない。だが、それでもまだ縮まらない。ここにいたって、もう後戻りは出来ないのだ。
 ここまでで、出来ているのは映像だけ。この後、MAという作業がある。音入れである。音楽とナレーションを吹き込み、それぞれが適切なレベルになるように、ミキサーを調整していく。そういう作業だ。
 すでに音効さんとは打ち合わせ済みだったから、音楽はもう出来つつあるのだろう。だが、ナレーション。
 そのMAまで、あと三時間。
 だんだんパニック状態に陥る。西野プロデューサーが、原稿をチェックしに来る。
 焦って、気が立ってきているので、「勝手に見て下さい」などという失礼な対応になってしまう。申し訳なかった。
 ナレーターは、あの佐藤慶氏だ。
 前々からファンだった私が、彼のドラマの撮りの合間に、無理にスケジュールをとって戴いたのだ。
 ADが「佐藤さん、いらっしゃいましたー」と言う。駐車場から電話があったらしい。
 どうにでもしてくれ、という気になる。
 三時間はあっという間に経ち、私は夢遊病の如くの足どりでMAルームに入り、佐藤氏にご挨拶をし、ディレクター席に着いた。

 ところが、案ずるより生むが易しで、佐藤慶氏は、あの渋い声で、少々長めのナレーションを原稿を、しっかりと収めてくれた。
 MAルームには小川部長がチェックのためにやってきている。私の原稿に対して、言いたいことは沢山あったろうが、「現場で取材したのは疋田なんだから、疋田のイメージ通りにやれ」と、黙っていてくれた。有り難かった。私の目が血走り、髪が逆立っていたのに恐れをなしたのかも知れぬ。
 音楽もイメージ通りのものがつき、多少、話が早く進みすぎのきらいはあるものの、なかなか躍動的で面白い。
 すべての音が収録し終わり、ミックスという作業で、全体のVTRの完成版を初めて見た。
「良いではないか、良いではないか」と私はまた、パチパチと手を叩いた。
 小川部長も「まあ、なかなか良いではないか」と言った。
 MAが、完全に終わったのが、二九日、つまり放送当日の午後七時。
 放送まであと二時間で、ギリギリと言えばギリギリだが、報道情報系の番組ではこれくらいは普通だ。
 気持ちのよい脱力感がある。
 それなりに自信作だ。後は二時間後の放送を待つばかりで、わくわくする。さあ見ろ、どうだ見ろ、ほれ見ろ、やれ見ろ、という気分だ。
 出来上がりのVTR(完パケという)五本を、オンエア担当のAD君に渡して、そわそわと落ちつかなく放送時間を待つ。
 私は放送をサブスタジオで見た。
 プロデューサーや他のディレクターや、技術スタッフたちが、ここぞ、というシーンで、私の目論見通り「ほお」と嘆息を漏らしたり、笑ったりする。
 嬉しい。この気持ちを味わうために、私はこの仕事をやっているのだ。

 以下は「スペースJ」での放送のテレビ原稿。
 括弧や、かぎ括弧内は基本的に生音で、「*」印にはナレーションをとる際のキューが入る。つまり何らかのポーズが入るために、タイミングを映像に合わせるということだ。


【VTR1】アバンタイトル

*かつてその地に文字のない文明があった。
(黄金フラッシュバック)
* 人々は太陽を崇拝し、その地上での生まれ変わりである黄金を愛した。
島田教授「今回の墓は難しいです」
* 黄金は権力者の遺体とともに地中深く埋められ、雨が降り、洪水が起き、戦いがあり、やがて数々の神秘が永遠に埋もれることになった。
(黒にフェイド 砂漠の夜景)
* 日は昇り、日は沈み、一〇〇〇年の時が流れた。
(カッ 太陽)
* 封印された歴史が今、一人の日本人の手によって解き明かされようとしている。
 その日本人の名は島田泉。
 彼はインカ帝国以前にあった黄金の国の名をシカンと名付けた。
島田教授「インカの黄金のルーツもここにあったのです」
(何らかの発掘風景を挟む)
* 出土するおびただしい量の黄金。
 一人の日本人考古学者の17年におよぶ努力が、今、実を結ぼうとしている。
 灼熱の南米大陸。
 世界の歴史が変わるというのは、こういうことなのだ。
(間があってタイトル「黄金の都シカン 真紅の頭蓋骨の謎」)

【スタジオ】
シカンの概略説明(高木キャスター)

【VTR1】墓の掘り始めと今までの発掘 (7-28)
* アメリカ南イリノイ大学教授、島田泉がペルーの北のはずれ、バタングランデ村に向かう。
 ペルーの大学院生、つまり考古学者の卵たちと一緒だ。
 島田が、この村に通い始めてから今年で一七年目になる。
* 村に着いた島田がまず始めたのが、宿舎を決めることだった。
* 入念なチェック。なにしろ今回は島田にとって最後のフィールドワークになるかも知れないのだから。
島田教授「何とか修理すれば使えますよ」
* 村から六五キロ離れた町での資材の調達。
 大勢の協力者が彼を迎える。
 その一人、昔から島田たちの食事をずっと作ってくれたモーリお婆さんは、既にご飯を用意していてくれた。
モーリ「肉入りの焼きめしを作って待ってたのよ」
作業員集会にやって来た島田教授「やあやあ、コモエスタ、久しぶりだね」
* 発掘作業員たちとの再会である。
島田「またこのファミリーに出会えて嬉しい。今回もまたつらい作業になるかも知れないが、頑張ってくれ」
* 作業員として集まった現地の面々の表情は、誇りに溢れている。彼らは既に多くの発掘を島田と共にこなしてきたベテランたちだった。
* 引っ越しの日。村の人々がこぞって手伝いに来る。
 島田の目的はただ一つ。
 シカンの墓を掘ることだ。
島田「今回は西の墓を掘ります。何故ならば、云々」
* 西の墓、シカンの謎、そして島田の執念。それを語るにはここで少々説明がいる。
(黄金、黄金、黄金 フラッシュバック)
* これらはすべてペルーから出土したと言われる黄金遺物である。だが、その出自ははっきりしない。
(場面転換、歴史を感じさせる音楽)
* 一六世紀、南アメリカで栄華を極めていたインカ帝国はその黄金の量で、その征服者スペイン人たちを驚かせた。
 最後のインカ皇帝、アタワルパは、自らの助命のために、この手の高さまで積み上げた黄金をスペイン人に差し出したという。
* だが、そのインカの黄金の出所については実は謎が多かった。
 彼らは文字を持っていなかったから、インカ帝国とそれ以前の歴史を記しようがなかったのである。
 いったいこれらの黄金はどこから来たのか。
 その謎に敢然と立ち向かった人間の一人が、一七年前の若き考古学者、島田泉だったのだ。
島田教授「インカ帝国の黄金は本当はシカン」
* 島田泉は勿論、日本人である。
 だが、彼は大学教授だった父親についてアメリカに渡った後、一四歳にしてその地に残ることを決意した。
 そして、プリンストン高校、コーネル大学と進む中で考古学にとりつかれてしまっていた。
* 彼はペルーの黄金遺物の目に注目した。
* 遺物に描かれた神の目は二種類、このように丸いものと、このようにつり上がったものだ。つり上がったものの方が圧倒的に多い。
 彼はこのつり上がった目はインカのものではないと考えた。
 それはもっと昔、もっと北の何者かに起源を求めるべきものではないか。
 そして島田はその何者かに「シカン」という名をつけた。
 月の神殿、という意味である。
 それからの彼の人生はこのシカン一色となった。ペルーに訪れては彼はデータを集めた。
 「金を盗みに来た悪い日本人」と地元の新聞に誤解されたこともあった。
 だが彼の熱意は次第に住民たちに信頼されていく。
* シカン文明の中心と思われるバタングランデ村には、風化したかつての神殿が多数ある。
 一九九一年、彼はその中の一つ、ロロ神殿を掘った。
 それは彼自身の学者生命をかけた大発掘だった。
 そして島田はその賭けに、勝った。
(九一年素材より、生音ちょい生かし)
* 墓はあった。そしてそれはまるで黄金の蔵だった。
 次々と現れる黄金遺物の数々、そして墓の主は黄金製の巨大な仮面を被っていた。
 そして目は確かにつり上がっている。
 シカン帝国は一〇〇〇年前のこの地にやはり実在したのだ。  
* だが、島田が掘った墓はあまりに奇妙な墓だった。
(CG入りSE)
* この墓の主人は、逆さに埋められており、顔だけは西を向いていた。
 また墓の主人の下に埋められた巨大な手袋は、黄金のコップを西向きにちょうど捧げもつように握りしめていた。
 全てが西へ、西へ。
 いったいこの墓の西には何があるのか。島田はこう考えた。
島田「残りは西だ」
* 島田の考えはこうだ。
 ロロ神殿には南北にプラットホームと呼ばれる部分があるがそれを挟んで、逆。つまり西に墓があり、そこに全てを説くカギがあるというのだ。
(リマ国際空港の喧噪。到着した島田教授)
* それを確かめるべく、今年7月、彼は満を持してここにやって来た。

【スタジオと中継】シカン発掘展の会場から小川キャスターの東の墓、解説

【VTR2】発掘開始(8-15)
* 七月一〇日、発掘初日に二五人の作業員たちが現場に集結する。
島田教授「あのあたりのアルガロボの木だ」
(期を切り倒す。ドサーッ)
* 一〇〇〇年前には無かった筈の木を切り倒し、掘るべき部分の周りに柵を作る。
 今回、掘る場所は二つだ。
 ひとつは島田の仮説に基づくプラットホームを挟んで向かい側の西の墓、そしてもう一つは九一年の東の墓の北にある「北の墓」。
* 北の墓を掘る理由はこの男である。日本からやってきた地中レーダー技師、渡辺広勝はここに確かに反応があるという。
渡辺「あのポイント。あるね」
* その北の墓から掘り始めた。
 だが、一口に発掘といっても、闇雲に掘れば何かが出てくると言うわけではない。表面の土をふるいにかけ、土質の分析から始まるのだ。
 気の長い作業が始まった。
(古井戸をぶち壊す。ハンマーで「ガンガン」)
* 同じ頃、島田たちの宿舎では古井戸の発掘も始まっていた。
 村には水道が通じていないから水の確保は急務なのだ。
 井戸の中に入るのは発掘メンバーの一人、穴掘り名人のエクトルさんである。
* 一三メートル地下。この数字は奇しくもある数字と一致することになる。
エクトル「多分あと二メートル半くらいで出るよ」
* 水道だけではない。バタングランデ村には電気もガスも通っていない。
 人口およそ一〇〇〇人のこの砂漠の中の村には、しかし古くから遺跡の伝説だけがあった。
 バタングランデという地名は「大きな石臼」という意味である。
 その名の通り、村の中心のすぐ裏にある山には、古代の人々が使った平たい石臼がたくさん転がっている。
 金を狙った盗掘の穴もたくさんあいている。
* 発掘開始から四日目、北の墓は八〇センチ程度の深さになった。
 穴掘り名人のエクトルさんも井戸掘りを終えて、作業に参加している。
 勿論まだ何も出ない。
 島田は西の墓の発掘にも着手した。
* 夜、宿舎ではろうそくの明かりで、今日一日の結果をまとめる。
 寝るのは夜の一時。教授の眼鏡が分厚い秘密は恐らくここにある。
島田教授「西の墓はまだ分からない」
* 一週間が経ち、今日は給料日である。作業員の給料は一日一五ソレス。日給およそ七五〇円である。
作業員「島田先生のところの給料は高いから」
* 中にこのようなお札が混じる。五〇〇万とある。
「五ソレスのことだよ」
* ペルーがフジモリ大統領政権になってから、気違いじみたインフレが漸く収まった。このお札はその時代の名残なのだ。
* 一日の作業を終えたエクトルさんが家に帰ってきた。
(エクトルさん顔を洗う「ばしゃばしゃ」)
* 彼の家は奥さんと娘のオリビアちゃんとの三人暮らしだ。
* 家に時計もテレビもないのはいいが、なんとこの部屋には屋根がない。だが、これがこの付近の平均的な生活なのだ。
エクトル氏「島田教授のところで働くのを私は誇りに思っている」
* 娘のオリビアちゃんは日がな動物と遊んでいる。
* 北の墓からは何かが出始めたようだ。
教授指さす「あれはトゥミです」
教授指さす「土器のかけらだね」
* しかし。
教授「文化的には全く意味がない」
(発掘の断面図CG)
* 実はロロ神殿のこの付近はかつて盗掘者たちに荒らされた跡があった。
 だから表面近くから出てきたものに関しては、文化的に解析しようがないのである。
教授「他のところから持ってきた可能性もあるしね」
* 西のトレンチの深さは二メートルに達しようとしているが、依然、墓の入り口さえ分からない。
 それは西の墓への盗掘が恐らく東よりも深く、どのあたりまで及んでいるかが、さっぱり分からないからだ。
 空しい土の運び出しが続く
* 発掘現場には、九一年の成功を知る来客が多数訪れる。
チクラヨ市長「ここは観光地としての魅力がある」
* 島田はその度に時間をとられてしまう。
* もうすぐこの地域には雨期がやってくる。島田はそれを一番恐れていた。
 時間がない。
* 金などが出たときに備えて、発掘現場の付近の小屋には、作業員のマルティン爺さんが泊まり込みで見張ることになった。
マルティン氏「ここで煮炊きするんだ。だけど食材は持ってくるのを忘れてしまったよ」
* だが、彼はまだ泊まり込むのが早すぎた。
教授「早めに発掘したい」
* 焦る島田に新たな苦難までやって来る。
「急にずきっと」
* 島田泉四六歳は腰痛で倒れた。
* 縁起を担いだのかどうか、島田は髭を剃った。
 墓はまだ入り口すら見せない。
 間もなく一カ月が過ぎようとしていた。

【CM】

【VTR3】(3-11)
* 発掘開始から四〇日が過ぎた。
* 五〇日目。それでも出ない。島田は当初、四メートル付近で墓の切り口に達するだろうと見ていたにも関わらずである。
* 実はこの間、北側の墓からは人骨などが発見されたのだが、恐らくはシカン時代以降の一般民家の墓であるということで、これ以上の発掘は時間の関係上断念されている。
 勝負は西の墓一本にしぼられていた。
* 発掘開始からやがて二カ月が経ち、依然西の墓はその片鱗さえ見せない。
* 今度こそは駄目かも知れない。口にこそ出さないが、島田もそう思っていただろう。
* 朝、驢馬を自転車に買い換えたエクトルさんも、発掘現場に向かう足どりがちょっぴり重い。
 娘のオリビアちゃんも学校へ向かう時間だ。
(学校へ、授業)
学校の生徒「日本って知ってる?」「島田は?」「知ってる!」
* 島田はこの地域で最も尊敬される外国人だった。
 学校の塀にもシカンと島田の文字が書かれている。
(場面転換 鳥飛ぶ)
 * 発掘開始から二カ月以上が経った九月二〇日、ついに西の墓に変化が起こった。
島田教授「これが古代の壁です」
 * これが古代の道具を使ったあとだ。
(発掘二カ月目三カ月目、めくりDVE。スーパーインポーズ)
* 古代の壁が出る。西の墓ついに発見。
 横穴が。
 いつの間にかトレンチはこんな深さに。
 マルティン爺さんの小屋もこんなに。

 【VTR4】(4-35)
島田教授「中でも重要なのがこの中央にある墓室です」
* 西側の墓は二重構造になっていた。それは今までのシカンの墓では全く見られなかった造りだった。
* ただ一直線の穴だった東の墓とは、大きさだけではなく、その構造も全く異なっていたのである。
* 東の墓と対称的な構造を持っているとの仮説を立てていた島田はショックを受けた。
* そして、横穴の中からは土器と遺体が三体。男女ははっきりしないが、いずれも若い。生け贄として埋められた可能性が高いと思われる。
 そしてそのうちのこの一体は顕著な特徴を持っていた。
 この状態ではよく分からないが顔に朱の色が塗られている。
 朱は身分が高い人、もしくは何らかの意味あいがないと決して塗られないものなのだ。
島田教授「さらにこの遺体は中央の地下を睨んでいるのです」
* さらにその中央墓室の周りでも、またしてもこの墓特有の顕著な特徴が出てきた。
「これも布、あれも布」
* この墓からは大量の金ならぬ、布が出てくるのだ。いや、この段階では布しか出てこない、と言った方がよい。(スーパー布は床にへばりついている)
 島田はニューヨークから織物の専門家、梶谷宣子氏を呼んだ。
梶谷「木綿みたいですねえ」
* 今や、墓室のほぼ全ての構造が見えてきた。
 六メートルかける一〇メートル。横穴は全部で一〇。真ん中に深さの分からない三メートルかける三メートルの更なる墓室。
 * 更に掘り進むと今度はVの字に組まれた荒い繊維のようなものが出てきた。
島田教授「これは竹の繊維です」
* 東側の布の上からは遂に金色に光る何物かが出てくる。
島田教授「トゥンバガの塊です」
* トゥンバガとはシカン時代の金と銀、銅の合金のことである。
 金色に輝くのは金の含有率が高い証拠だ。
(高い位置からとCG)
* 朱に塗られた顔と、V字の竹とトゥンバガの塊は一直線に並んでいる。
 点と点とを結ぶところには必ず何かがある。それは島田の持論だった。
 この下に重要な何かが必ずある。だが、それはいったい何なのか。
 中央の墓室はまだまだ下に続いている。
島田教授「我々にはもう予測不可能」
* 今はただ掘り進んでいくだけだ。

 【CM】

 【VTR5】
* リャマの骨が出てきた。
* 布の模様もある程度分かってきた。
* スポンデュラス(海菊貝)という貴重な貝も発掘された。
* いつの間にか、見張りのマルティン爺さんの小屋も充実してきていた。
* そして発掘開始から実に四カ月以上が経過した、一一月一四日のこと。
* 金色に光る物体。そしてそこには何やら目玉のようなものが描かれている。
島田教授「我々にもわからんですよ」
* その物体はどうやら奥へとつながっているようだ。
 入念に土をこそげ落とす作業が続く。
島田教授「まだ説明できない」
* 島田もなにがしかの興奮の色を隠せない。
* 全体の形が何となく見えてくる。
* 緑色をしているのはどうやら腐食した銅の構造物である。
* そして墓室の縁から、長い黒い布のようなものが続いている。
* 島田教授が指で撫でているところが金色の部分だ。
* 全体の構図が見えた。
* 真ん中には腐食した銅が何か篭のような形になっている。
(教授、写真を撮る。カシャ、カシャ)
疋田「先生、それ頭蓋骨でしょう」
* だが、教授は無視の構えである。
* 今の彼の頭には記者の質問など入る隙間はない。
* 金色に光る物体。
* それが付属するような腐食した銅のようなもの。
* これは鳥の羽飾りに見えはしないか。
* そして朱色の丸い壷のようなもの。
* 考えることはたくさんあった。朱色は、垂れ下がる布は、この深さになぜ、これがもし頭蓋骨だとしたら。
* 日が、暮れてようやく島田教授は語った。
疋田「画期的な日だったのではないですか」
教授「ええ、そう言ってもよいと思います。これが頭蓋骨で、、」
* 島田はこれは頭飾りではないかという。
疋田「金についてはどうなのか」
教授「まだ分からない。この頭蓋骨が主体である可能性、そして、そうではない可能性が五分五分だ。もし後者であるとしたら、、、」
* そして一連の物体はどう発展するのだろうか。
島田教授「副葬品はこの下に」
* 布は我々を誘導するかのように、墓室の下に潜り込んでいる。
(音楽盛り上がる)
* 実は今回の報告は残念ながらここまでなのである。
(映像、ストップモーションへ)
* 無論、発掘は現在も進行中である。取材も継続して行われている。現地からは、別の何物かが、さらに下から現れ始めているとの報告がある。
【VTR終わり】

【スタジオ】

 山本文郎キャスターと下村健一キャスター、小川部長キャスターの掛け合い
 番組エンディングへ

**
 編集のやり方は、これはあくまで私の場合、という一例である。それぞれのディレクターにはそれぞれのやり方があって、こうまでジタバタしないのが普通なのだろう。
 だが、私はそうしてしまう。諦めが悪いのだ。「この程度」という見切りが出来ない。おまけに最後まで「あ、こうすれば良かった」などと思い、やり直してしまったりするので、効率が悪い。困ったことだ。編集オペレーターにもきっと評判が悪いな。申し訳ない。
 それから、私の編集作業は、読んでいて分かるとおり、原稿主導型である。ディレクターによっては、まず映像を繋いでから、おもむろに原稿を書き出す人もいる。
 私としては、それでは伏線を引っ張ったりすることが出来ないではないか、とか、肝心なことの説明が巧くいかなかったりするのではないか、などと思ったりもするが、迫力のある映像がテンポよく繋がっていくという意味では、映像主導の方が良かったりもする。どちらがどちらよりとも言えず、まあ、良し悪しである。ディレクターの趣味による。

***
 放送の評判はなかなか良かった。
 特に下村健一キャスターが「久しぶりに特集らしい特集を見たよ」と言ってくれたのが嬉しかった。
 ついでに視聴率をいえば、コーナー四五分の平均が約一六パーセント。この種のネタとしては、上出来である。



 ちょっとした付け足し

 その後のことを少しだけ付け加えよう。
 私の後にバタングランデ村に派遣された秋山ディレクターは正月早々に帰国することになった。ブツは結局出てこなかったのだ。
 さんざん期待させた巨大な墓ではあったが、深紅の頭蓋骨の下にあったものは、結局のところ、銅製の大仮面が、殆ど唯一だったのだ。
 その他のものは、三センチ程度のペンダント状のものなどが数点に過ぎず、黄金製でこそあるが、そのみすぼらしさは東の墓とは較べようもない。
 テレビ編成的宝探しの観点から見ると(私は決してそうは思わないが)今回の発掘は失敗と言っても良いくらいであった。
 だが、奇妙なこともある。
 墓の主人は結局のところ、私が見た赤い頭骨だったのだが、その下には二六体もの生け贄が埋められていた。これは東の墓にはなかった現象だった。そして、複雑に張りめぐらされた布。さらに、これだけは東の墓を圧倒するその大きさだ。
 謎は解けるどころか、深まるだけだった。
 九六年の初頭、島田教授はアメリカに帰った。そして、現在に至るまで、発掘品の分析を続けている。
 そして、我々にとっては、三月に組まれた特番の枠だけが残された。
 枠はあるものの、流すべき内容は乏しかった。
 結局のところ「スペースJ」の放送に出た内容こそが、今回の発掘の一番のスペクタクルだったから、その二時間枠は脅威だった。
 会議が何度も行われ、その二時間をどうやって埋めるのかが話し合われた。
 義井氏も東京に帰り、我々の会議に加わった。
 そして、一月の下旬、私は三度ペルーに行くことになったのだ。
 私の担当は一時間分。そして、テーマは逆さ埋葬の謎である。
 教授に解けないものを、一介のテレビ屋が解こうというとてつもない企画書を私は出していた。無謀だった。だが、シカンの熱に浮かされ、ちょっとしたアマチュア考古学者気分になっていた私は、ペルーについて初めてその無謀さに気づいたのだ。
 今度は定点観測する地点はない。
 ペルー中をまわった。
 標高四〇〇〇メートルのアンデス山中の村から、アマゾンの奥地、砂漠も海も巡った。
 伝統的な「ハサミ踊り」のマエストロや、ナマケモノやチスイコウモリやナスカの地上絵が私に語りかけた。
 取材は前回とは違った意味で楽しかった。自らの手で謎を解く、と私と一緒に力瘤を入れた義井氏はテレビレポーターと化し、ミステリー小説を楽しむように色々な人に会い、色々なところに出かけた。
 そして、我々はついに(川口調)何とか逆さ埋葬の謎を解く入り口くらいまでにはたどり着くことが出来たのだった。
 だから、この物語には本当は、これと同じだけの分量の第三章がある。
 何らかの形でそれを発表できたらと思いつつ、今回はこれでワープロのクローズボックスを押す。
 ペルーの大使公邸人質事件はいまだ解決されないままにある。ブラウン管の中に流れるかの国の姿はひとえに貧困とテロの国だ。
 だが、私にとってのペルーは違う。
 そしてバタンの人にとってのペルーもそうではなかろう。
 エクトルさんは相変わらず屋根のない家に住み、井戸を掘ってはニコニコ笑っているのだ。
 エクトルさんの娘は今年、中学校にあがるはずだ。